帰ってくる場所

帰ってくる場所

この角度からの松江の景色は初めてでした。

嵩山の山頂は、とても見晴らしが良く、

大山の方向も絶景でした。

 

 

高校卒業から松江を離れ

大学、就職。

途中、松江に戻り就職しましたが、

しばらくして結婚で、また県外。

 

 

「妻」「嫁」「母親」という役を演じ、

それまでも、

「娘」「姉」「友人」「学生」という役。

 

それぞれの役柄の

最高のパフォーマンスを目指すことが

「生きている意味」だと捉えていたので、

役柄を演じきれない

自分の能力の低さを

常に不満に感じていました。

 

 

私はほかのなにものでもない私。

 

 

「役」を演じることを

どんどん手放して、

ようやく自分らしさを取り戻しました。

 

 

20歳代の頃の私を知る方と

35年ぶりにお会いしたら

 

「ちっとも変わらないね。」

 

と言われましたが、

 

「あれからいっぱい「役」をもらって

演じながらいろんな体験をして、

「役」を演じるのを辞めれることを知って、

「私」に戻ったところなんです。」

 

とご返事しました。

 

 

いちばん自分らしくいられる場所は、

外側ではなく内側にあることを

知ることができた幸せを

強く感じています。

 

 

どんどん変化している街並みと

ひとの流れ。

 

でも、

 

宍道湖と美しい山々に囲まれて、

祝福されたような

豊かな自然の産物に恵まれて、

優しく心豊かな人々が住んでいる。

 

 

松江にあるこの

ありあまる富に

 

ほんとうに気づいている人との

出会いが始まりました。

 

私の身体の芯が震えるほど喜んでいます。

 

 

タグ: , , , , , , , ,

「手放す」ことの大切さ

「手放す」ことの大切さ

過去の多くの場面で
たくさんあった選択肢の中から
選んできたものに
いま、わたしは囲まれている。

 

「やる?」「やらない?」
なら

必ず「やる!」

決めていた。

 

やらないで
出た結果に後悔したくない。

できるだけのことを
やり尽くしてみたい。

 

でも、
あとになって
「なんでこんなことしたんだろう?」

感じることもある。

 

それでも

「やってみたい!」と
強く思って始めたことは

なかなか終わらせることが
できないものでした。

 

そこに
「感情」がくっついているから。

 

外に向けてのプライド

自分は間違っていない
という「良い悪い」のジャッジ

誰かに迷惑をかける罪悪感

挫折という自己否定

そして
自分を許せない。

他人には理解できない
意味不明な行動には

 

こんなものたちが
いつのまにかくっついていて
動けなくなってしまう

 

カラクリがありました。

 

 

それは時間が経つにつれ、

注がれ続けた

のような作用をもたらす
こともあります。

 

 

たった一つの過ちに
いつまでも囚われて
どんどん自分を
傷つけていく。

 

こんな人の姿を
身近で何人も見てきました。

 

それは

どんなに頭が良くても
どんなに頑丈な身体でも
どんな地位にあろうとも

心の中の
やわらかい部分は
繊細なものです。

 

 

むしろ

「強くあらねば!」
「正しくあらねば!」と
思う人ほど

強く自分を縛って
過ちを許せない。

「なんて奴なんだ!」
「これじゃダメだ!」

 

はやく そこに気づいて!
何度も言いたい衝動を
抑えて

 

自分で気づく
「学習」を
していただくしか
ありません。

 

わたし自身も
そうやって
自分で気づいたからこそ
手放せた。

 

傷つけているのは
自分自身なんだと
自分で納得したから
行動できたのですから。

 

もっともっと気楽に
楽しく
自由に

 

「やっちゃったな〜〜」
「できない自分も許そう」
「はい!次に行こう!」と
軽いフットワークになるために

 

「手放す」ことが どれだけ大切か。

 

いっぱい
くっつけてしまっていた
「感情」を
解放できる方法が
あることを

 

もっともっと
たくさんの人に
知っていただきたいです。

 

その「感情」を

四六時中感じ続けて

自分が自分を傷つけていることが

どれだけ不幸なことであるかに

気づいていただきたいのです。

 

RAS®︎のセッションでは
ストレスの原因となる
「感情」を
身体から直接導き出します。

 

そして
自分の力で
手放していく
「学習」をすることで

 

本人にしかできない
本人だけの問題の
形を変えていく。

 

「なんでこんなことしたんだろう」

少しでも離れてみることが
できるようになると
次に進むことが
できますよね。

 

いつまでも
囚われ続けない
区切りをつけることが
どれだけ大切なことか。

 

 

新しいキャンバスに
自由な自分を描いて
毎日、まったく違う絵を
重ねていける日々って
楽しいと思います。

 

 

 

 

タグ: , , , , , , , , , , , , , , ,

2018年1月6日 「事業関連の解放」のセッションを受けました。

2018年1月6日 「事業関連の解放」のセッションを受けました。

 

2018年1月6日に、

RAS認定インストラクター®︎

藤井ちひろさんの

「事業関連の解放」のセッションを受けました。

そのあと、ちひろさんにお送りした私の感想文です。

それまで、ファシリテーターとして、

セッションをできるところまで

「解放」のセッションを

受けてはいましたが、

 

私自身の課題は、「自立」。

 

その大きな問題に、なかなか向かい合うことができませんでした。

 

まだまだ変化の途中ですが、

RAS®︎のセッションで解放すると

ハッキリとした変化が

内側と外側に起こることを

お伝えしたいと思います。

 

 

「ちひろさん。

昨夜は、

なかなか寝付けませんでした。
『あれもしたい』

『これもしたい』

『そうだ!こうしたらいいじゃないか!』

と、たくさんの楽しいことを

思いついて止まらない感じでした。

 

夏休みの前の学生のように、

自由な時間をどう過ごそうか?

と胸をときめかせる

アイデアがあふれていました。

 

 

10日ほど前に、

思いきって ちひろさんに

ご相談しましたよね。

 

あの時は、

1月6日に事業関連の解放を受けて、

すでに手放すことができるものが

グラグラと心の中で

動き出していたのに、

 

『どうしたらいいんだろう?』

と混乱していました。

 

いま、ここまでくると、

その原因が3つあったのだとわかります。

 

①今は不必要な広さの事務所を

手放せばいいのに、

あまりに手をかけ過ぎて

愛着があり、手放せない。

 

②この数年、

恐れ続けてきたことが、

いよいよ現実化しそうなのに、

それに関わる家族に

正直に話すことができない。

 

③『だれかが どうにか

してくれるんじゃぁないのか?』

『突然、大きな奇跡が起きて

助けられるカモしれない』と、

小さい子供のような

甘えた心を手放せない。

 

 

これらが私の感じていた

強い恐怖の原因でした。

 

 

自分で決めなきゃいけないのに、

逃げ続けていたせいで、

よけいに状況が悪化しているのに、

 

それを始めることで傷つく

私の外側に向けての

[プライド]が

じゃまをしていました。

 

 

私が自分で気づけるように

アドバイスしてくださって、

 

「プライドか。」と

ようやくたどり着き、

 

それでもなんだか

ハッキリしなかったので、

 

『とにかく動いてみよう。』

と思い、

以前から考えていた

『ポスティング』に出かけました。

 

 

事務所の近所に

ご挨拶がてら始めてみようと

出発しました。

 

お天気で、

はじめての体験を楽しみながら

スタートでき、

 

お庭に出ていらっしゃった方には

『ポスティングしてるんですけど、

入れさせていただいてもいいですか?』

とお声をかけて

『いいですよ』とご

返事いただくことが

嬉しくも感じていました。

 

でも、20分を過ぎるころ、

ちょうど50枚配った頃から、

心の中に違和感を感じ始めました。

 

 

「なんか、違う。」

「いま、私がやることは

ポスティングじゃない?」

 

そして、身体が

 

『事務所に帰りたい。』と

全身で、先に進むことを

止めようとしている。

と感じ始めました。

 

「なぜだろう?」

戻る途中から、気がつき始めました。

 

「事務所、ここじゃなくてもいいんだ。」

 

気がついても、

 

「でも、ここまでせっかく

キレイにして、

手をかけて大切にして来たのに

もったいない。

 

ほかにこんないいところ無いし。」

と、

 

執着心が抵抗しました。

 

胸の奥から

ワーっと溢れ出てくる

嫌な感情のモヤモヤが、

重く強くそして痛く感じて、

 

『いやだ〜〜!』と抵抗しました。

 

 

撤収作業、大変だろうし、

大家さんに何と言えばいいんだろう?

 

ほんとうに手放さなきゃいけないのか?

 

それから半日かけて、

自分の中のその感覚に向き合い、

集中して感じ続けました。

 

そうしていたら、

 

ほかのことにも気づき始めました。

 

 

家族に話さなくてはいけないこと。

 

絶対怒られる。憎まれるかもしれない。

愛しているのに憎まれるなんて、

なんて辛いんだ。

『苦しい〜〜』

 

私なんかにできるわけないじゃない。

 

誰か助けて!

『寂しい〜〜』

 

3つが重なって、

立っていることができなくなりました。

 

 

「こんな辛いことに、

私はどこまで耐えられるんだろう?」

と口にしながら、

 

胸の奥の強い痛みを感じました。

 

 

 

そして、ようやく、

ようやく、です。

「事務所は手放そう。」

ということから決断でき始めました。

 

次の日は家族に話をしました。

 

そして、

頼りたいと思っていた方には、

 

「甘えようとしていました。

私の問題なのに

自分勝手と気がつきました。

ご迷惑をおかけして

申し訳ありませんでした。」

 

と連絡しました。

 

 

 

事務所の家具などを

ぜんぶ処分するつもりだったので、

 

 

家具の買取が、あまりに安くて、

ガッカリしたり、

事務所の契約を解約する時に、

大家さんが何を言われるだろうと

勝手に難しく考えてしまったり、

 

 

これからの引越し作業の

大変さを考えるだけでも

「大変だー」と尻込みしたくなったり、

 

 

相変わらず

 

執着、プライド、頼りたい。

 

が出てきました。

 

その度に向き合い、外していきました。

 

RAS®︎のセッションで

既に外していただけたので、

 

細かい感情の浮き沈みは、

自分でお掃除できるような感じでした。

 

 

それで、ようやく土曜日の夜、

 

「事務所の家具は、

ぜんぶ 今住んでいる

住居に入るんじゃないか?」

と考え始め、

 

幸い、離れのプレハブもあるので、

 

「そこを事務所にしたらいいんだ」

と思いつき、

 

じゃあ、何をどこへ?から、

考え始めて、

どんどんアイデアを思いつき、

 

私の頭の中には、もう、

その配置は出来上がったのでした。

 

 

事務所が決まると、

ひとと関わっていく

私のイメージが湧いてきました。

 

「そうか!

あの人にお知らせしてみよう!」

と気がついたり、

 

「面白いこと始めたよ。」と、

楽しい話題ができたことを

伝えたい、

 

これまで気にかけてくださった

方々を思い出したりし始めました。

 

 

あの胸を痛めた

強烈な苦しみがあったことなど

忘れたかのように、

 

ワクワクとし始めて、

胸が熱くなってきて、

身体もポカポカし出しました。

 

 

それで、なかなか寝付けなかったのです。

 

なんで、

もっと早く出来なかったんだろう?

 

 

 

と不思議なくらいでした。

 

それを私の[プライド]が、

それだけ強く邪魔をしていたのか、

と、ようやく目が覚めたのでした。

 

 

 

「事業関連の解放」

と聞いていたので、

 

「何かを拡大させるのか?」

と思っていましたが、

やっぱりRAS®︎。

 

『手放す』ことから始めないと、

新しいものは入って来ないんだ。

 

 

「耐えられるのか?」

と感じたあの苦しみから、

 

1日経ったら、

 

こんなに変われるのか!

と驚くほどの、

 

私の内側の激変でした。

 

 

感想は
「あ〜〜 とってもしんどかった!」と
「あ〜〜 とってもしあわせ!」
です。

 

 

そりゃ、

家族からは、

強烈なヒンシュクを買い、

 

ガンガン言われもしましたが、

 

 

私の感情が解放できているので、

 

「ごもっともです。

何の言い訳もいたしません。

ほんとうにごめんなさい。

私は大バカです。」と、

 

素直に受け止めて、

感情的にならずに、

反省しながら

真摯に向き合い続けていられます。

 

 

たまに

「うっ」と罪悪感が襲っても、

 

直ぐに「私の内側」と向き合って、

どんどん消化が進んでいます。

 

 

 

以前は「汚点」と感じて

 

絶対避けたかった

「できない自分を真正面から見つめる」

こと。

 

 

そんなことをしたら、

屈辱を抱えながら

悩んで、苦しんで、

死んでしまうカモしれない

と感じていたのに、、

 

 

こんなことが出来るように

なれた自分にビックリ‼️してます。

 

 

 

昨日、

長男が、初めて面接に受かり

採用されました。

涙を流して喜びました。

これまでで、

最大のご褒美をいただきました。

 

 

タグ: , , , , , , , , , , , ,

「断食」とRAS®︎ 似ていると感じます。

「断食」とRAS®︎ 似ていると感じます。

5年前から「断食」を
始めました。

キッカケは「酵素」を
知ったことでしたが、
とにかく、その爽快感に
ハマってしまいました。

 

それまでは
「身体に良いものを摂る」
という視点からしか
食べることを考えていませんでした。

 

玄米食やたくさんの野菜料理。
新しいものも
とりあえず試してみる。

 

たっぷり食べているのに
まだ、調子が思わしくないと

 

サプリメントやドリンク類

運動も
ヨガや太極拳やバレエ
ベリーダンス
ジョギング
テニス

 

でも、中年太りの体型は
あまり変わらず
腰痛も抱えたまま。

 

食べたあと
片付けするのが億劫なくらい
疲れていることも
感じていました。

 

朝、起きるのもしんどい。

 

そんなとき、
またまた知り合った方が
断食を体験なさっておられ
「50年、毎日食べ続けたんだから
その体型なら
1週間くらい食べなくても
大丈夫。と、思わない?」
と言われ、納得して始めました。

 

はじめは慎重に
ガイドブックのとおりに進め
3日目からの
目覚めの軽さに
驚きながら楽しみました。

 

時差ボケがなくなったり、
筋肉痛がなくなったり、
味覚や匂いに敏感になったり、
なにより心が軽くなったようで、
若返ったのか?と
ワクワクしました。

 

半年くらいで
体重がかなり減って
服のサイズが変わりました。

 

「食べすぎ
だったんだな〜〜」と
やっと気がつきました。

 

「身体のためには
キチンと食べなきゃいけない」と
子どもたちにも言っていました。

で、
食べすぎで、眠たくなっていました。

 

その頃は
身体の声を聴く
ということに鈍感ですよ!と

 

不調が教えてくれていたのでした。

 

頭で考えるのではなく
身体に聞いてみる。

 

食べたい!と感じる時に
何が欲しいのか?

 

食材を選ぶことも
大切ですが、

 

どれくらい食べるといいのか
感じることが
大切ですよね。

 

そうやって
自分だけのペース。

 

お食事時間でも

その度に
「どう?」と身体に聴いてみて

食べたあとも
「これくらいでいいかな?」と

様子をみて、
自分で確かめていくと

 

こんなに少なくていいんだ。
という時があったり、

 

今は、なんで
たくさんの甘いものが
欲しいのかしら?と

じっくり自分を見つめることが
できるようになってきます。

 

 

そういう意味では
断食はRAS®︎に似てるな。と
思います。

 

心にいっぱいある「感情」

 

頭で考えているだけだと
気がつかないことが
残っていて

本当はどうしたいのか?が
わからなくなってしまうことが
あります。

 

セッションで、身体と対話して
不要なものを「解放」すると
心が軽くなります。

 

「やらなきゃいけない」と
思い込んでいたことに
ストレスを感じていた。

 

それを紛らわすために
甘いものをいっぱい食べたり、
お酒をいっぱい飲んだり、
満腹になろうとしていた
のカモしれません。

 

食べることからの
身体のサイン。

 

 

「そうかも!」と感じたら
RAS®︎のセッション
いらしてみてください。

タグ: , , , , , , , , ,

自分と向き合う

自分と向き合う

 

朝 目がさめると、まず、

「どう?」と 心に問う。

 

「いい感じよ〜〜」みたいに
言葉で返ってくるわけではない。

 

五感ではない、
もっと繊細な感覚。

 

布団を出て動き出してしまうと
失ってしまいそうな

 

のような感覚。

 

たとえて言うと、

 

「ただいまー」と
帰ってきた子供の

 

その声と、

 

「お帰りー」と
応じながら見る

 

姿と動き、

 

(ご機嫌ね。)の時もあるが、

 

(楽しいばっかりじゃ なかったんだな。)

を感じ取る時もある。

 

一瞬で受け取り

 

(そうなのね。)と思いながら

 

直接は問わない。

 

まだ、言葉にできない
モヤモヤしたかたまりなのか、

 

言ったら私にどう言われるかを
警戒しているのか、

 

子供が何か口にするまでは、
待っておく。

 

こちらから問うてしまうと
風が吹いてしまい
散ってしまう

 

霞。

 

母親が無意識に
子供に向けてやっていること。

 

 

「場の空気を読む」 というのにも
似ている。

 

自分の主観を入れずに

 

身体全体から
入ってくる情報を

『なんだ?』と
感じ取ろうとする時、

 

目にはいってくるものを
一つ一つ
考えていては
ついていけない、

 

手放し状態。

 

集中
とも違う。

 

心の感覚の網を
パッと広げて
どこかでキャッチ
しようとする
ような
センサー

 

その場を管理する者が
無意識にやっていること。

 

 

それを
外側に向けずに 内側でする。

 

 

ついこの前までは

 

心臓の横に
つめたーい石のかたまり
があるような
感じがしていた。

 

それが、
だんだん小さくなり
あたたかくなり
やわらかくなり

 

かたまりはなくなった。

 

「しなくてはいけない」
を手放し、
「したい」ことを
増やして
きたおかげ。

 

こんなことさえ
わからなくなっていた。

 

義務
責任
負担

 

の中に
埋め込んでいた「自分」を
発掘作業し始めた。

 

化石と化していた
かたく冷たい かたまりを

叩くのではなく、

 

ホコリをはらって
両手で包んで
あたためてきた。

 

こんなところにあったんだ。
私の大切な宝が。

 

気づけてよかった。

 

いまは

やわらかな熱を帯びた
小さな太陽が
あることを
感じ取れる。

 

心臓の鼓動とともに
その太陽の輝きが
全身をめぐっている。

 

でも、そのめぐりは

霞のように繊細だから
強い風に
吹き飛んでしまう。

 

悲しみ
恐怖
不安
緊張

 

ビリビリと稲妻が這う
その嵐の中でも

 

心臓の横にある
小さな太陽は
確かに ある。

 

もう、冷たい石じゃないから、

思い出したら
いつでも
そこに戻ってあたたまれる。

 

 

「ただいま!」の
顔が 晴れ晴れしているように。

 

ドッと笑いが満ちた会場の
濃くなった 空気のように。

 

輝く光の粒子が
いつまでも舞っていて
それを
からだに纏って動き続ける

 

イメージができたら
OKサイン。

 

布団を出てスタート!

 

 

 

 

タグ: , , , , , , , , , , , , , ,

この野郎!

この野郎!

 

 

この野郎!

こんなことでいいと思っているのか!

この野郎!

こんなことやっちまいやがって!

この野郎!

こんな簡単こともできないのか!

この野郎!

こんな当たり前のことも知らないのか!

この野郎!

こんな大切なことを忘れてしまったのか!

この野郎!

こんな単純なことも考えられないのか!

この野郎!

いつまでグズグズしてるんだ!

この野郎!

こんな大事な時に何やってんだ!

この野郎!

つまりはお前になんかに

才能なんてありはしないんだ!

この野郎!

自分が特別だなんて

思ってるんしゃないのか?

この野郎!

もっとしっかりしないと

ダメじゃないか!

この野郎!

偉そうなこと言っても、

自分はどうなんだ!

 

この野郎!何に苦しんでるんだ?

この野郎!幸せじゃないのか?

この野郎!なんで動けないんだ?

 

 

この野郎!

これでいいんじゃないか?

この野郎!

こんなことできなくて

いいんじゃないか?

この野郎!

こんなこと知らなくても

いいんじゃないか?

この野郎!

こんな大切なことでも

お前が要らないなら

忘れていいんじゃないか?

この野郎!

こんなこと考えられなくて

いいんじゃないか?

この野郎!

ゆっくりしてれば

いいんじゃないか?

この野郎!

こんな大事な時だから

楽しんでいいよな!

この野郎!

やりたいことが

才能なんだよな!

この野郎!

自分は特別大事なんだぞ!

いなくなったら困るからな!

この野郎!

出来ないことやしたく

ないことは

しなくていいんだぞ!

この野郎!

自分が感じたら、

言ったらいいんだぞ!

 

 

この野郎!

 

そのまんまで いいんじゃないのか?

タグ: , , , , , , , , , , , , ,

問題は解決しようとはしないこと(離婚編)

問題は解決しようとはしないこと(離婚編)

 

「離婚したい!」と裁判をしていた時は、

「離婚できない」という「問題」の解決をしようとしていました。

 

【問題は解決しようとはしないこと】

 

実は、

その問題の根っこは「恐れ」でした。

 

【その時点で感じていた「恐れ」は】

 

「このままでは、一生 自由に生きられない。

生活を管理され、コントロールされ、

私は自分の感情を抑え続けなければならない。」

 

「私が正しい。」

と強く思っていたので、

同じ強さで相手は攻撃してきました。

 

子供たちまで不安にさせ、悲しい思いをさせながら、闘いを長く続けました。

 

ようやく

「離婚」できて、「問題を解決」したはずなのに、落ち着きませんでした。

 

 

【根っこの「恐れ」を残したままだったから】

 

 

自分を管理して、コントロールして、不自由にさせていた。

感情を抑え続けて我慢していた。

 

ほんとうの原因は、私自身にあった

 

だから、

 

自由になれたのに、

「これからどうしたらいいのか?」と

不安が日増しに大きくなっていくことを

どうしようもないまま、

あれこれと試行錯誤を続け。

 

「いつかは、身体がついていけなくなりそうだな」という不安も重なっていきました。

 

 

【「恐れ」は私が 私自身に対して抱いていた感情】

 

あのままいけば、きっと、無理をし続けて、病気になっていた。

先行きの不安から逃れるために動き続けて

安心を求めるあてのない彷徨の末の挫折。

 

裁判の相手は

それを知らせてくれただけ。

 

私が闘っていたものは、

私が作り出した幻想でした。

 

目の前の「問題」だと考えていたものは

本当の「私の問題」に気づくためのサイン。赤信号 だった。

 

 

相手は、心から心配してくれていた。

 

私や子供たちのことを。

 

相手なりのやり方で、それを解決しようとしていた。

相手が「正しい」と信じた方法で。

 

でも、

それを、受け取る私には

攻撃されているとしか思えなかった。

 

私の批判ばかりして、

自分の非を認めようとしないから。

動けなくさせようと

押さえ込む方法ばかりを仕掛けてきたから。

 

私は持ち前の思いっきりの良さで、

それまでしたことのないことばかりに挑戦して、

 

「バカにしないでよ!」と

行動で示そうとしていた。

 

自分が正しい。

自分には権利がある。

自分には行動力がある。

自分には能力がある。

 

相手に助けてもらわなくても

ひとりで人生を生きていく力があるんだ!

 

相手が間違っていて、

自分は正しいんだ!と強調するために。

 

それは「復讐」でした。

私が囚われていたことへの。

 

家族のために頑張ってきた。

家族のために我慢してきた。

家族のために尽くしてきた。

のに、

それを全く評価してもらえない

 

挫折感。焦燥感。

 

そして「怒り」を

 

動きまわり、いろいろなことをすることで

 

「復讐」という形で表現しようとしていた。

 

 

【私が気づいていなかった「大切なこと」を知らせるために 起こってくれた「問題」でした。】

 

「私が囚われていた」のではなく「私が私を縛り付けていた」

 

 

何か手立てはないものかと、「それまで学んできたもの」を いろいろ試してもみましたが、

攻撃されていると思い込んでいたので、反撃することしか思いつきません。

 

「相手の立場に立って考えましょう。」

↑そりゃあ離婚となれば都合悪いでしょうね。そっちが悪いんですから。

そちらの思い通りになんか なるもんですか!

 

「同じステージに答えはありません。離れたところから見るようにしましょう。」

↑俯瞰してみても、どう考えても 批判され攻撃されてるとしか感じられない!

誰が見たって相手が悪いでしょう!  私は被害者なんだわ!

 

「そういうことを改めて考え直す『暦』である。」

↑人生の転機ならば、仕方がない。結婚に向かない誕生日らしいし。

これまで我慢してきたことを爆発させるチャンスなんだわ!

 

「子供のことを考えて。」

↑子供まで管理して押さえ込もうとするなんて許せない。

私の方が正しいんだから、子供は私が守るんだ!

 

押さえきれない腹立ちまぎれに 愚かな考えを必死に繰り返していました。

 

自分が正しくて、相手が間違っているんだ!

 

こんな単純なことなのに、どうしてさっさと終わらせられないのか わからない!

 

自分の正義と相手の正義の違いや

価値観の違いなどにまで、配慮できない狭い心の中で、

 

ただただ「恐怖」と戦っていたのでした。

 

自分が間違っているなどと微塵も認めたくはない。 という「恐怖感」。

 

たとえ「離婚裁判」という形の問題とならなかったとしても、

違う形で必ず何かが起こっていたでしょう。

私が「大切なこと」に気づくまで。

 

【私がそれまで おろそかにしていたこと…自分自身を見つめること】

 

誰の人生なの?

誰の感情なの?

誰の身体なの?

それで幸せなの?

それで楽しいの?

そのままでいいの?

 

いやだ!

 

と 強い感情が生まれて、爆発したのは

この「離婚」という問題のおかげでした。

 

違う形で起こっていても、離婚はしたかもしれません。

でも、関わった人間に、もっと思いやりをもって話を進められたかも。

もっと穏便に、冷静に、お互いが納得して終わらせることができたかも。

 

しかし、

私は「離婚裁判」という戦いとなりました。

 

示談も、調停も、不調に終わってしまったからです。

相手が応じてくれなかったから。

 

でも、それも、私が頑なに「自分が正しい」と貫き通そうとしたから。

 

相手が私の「鏡」になってくれて、示談にも調停にも応じなかった。

 

徹底的に闘って、心に大きな傷を作り、精根尽きるほど疲れました。

 

そこまでしないと私は気づけなかった。

それだけ頑固で直情型で型破りだから。

 

気づかないままでいたら、

「幻想」もそのまま。

何か起こるたびに「幻想」に立ち向かうだけ。

 

【問題は解決しようとはしないこと】

  • その時感じる「感情」に注意を向ける。
  • なぜ、恐怖を感じるのか?
  • なぜ、そう受け取ってしまうのか?
  • なぜ、怒りを感じるのか?
  • なぜ、悲しいと感じるのか?
  • なぜ、焦ってしまうのか?
  • なぜ、自分が正しいと強調しようとするのか?

そして

それは、自分が自分に向けて していることではないのか?

「なんで そんなこと するの?」と受け取ってしまう攻撃は

私が自分にしていること」を教えてくれていた。自分自身を攻撃している。

【それが「問題の奥にある ほんとうに大事なこと」でした。】

 

  • 私は、私には力がない と 思っていた。
  • 自分の人生の責任を100パーセント請け負う自信がなかった。
  • 私は、真剣に自分を幸せにしようと向かい合っていなかった。
  • 私は、自分の意見を主張することを わがままだと思っていた。
  • 私は、できない自分を批判するばかりで、愛せなかった。

自分にこんな酷いことをしていた

 

それを教えてくれる出来事が、

家族や親戚を心配させ、巻き込んだ「裁判」という形で現れ、

離婚することになったのです。

 

心の底で、

認めたくないと思っていた感情。

私にほんとうに必要だったものを獲得しようとする「戦い」

 

そう!

「戦っていたんだ! 自分の心の中で!」

 

RAS®に出会ったおかげで、やっと気づくことができました。

 

あのまま知らないで、また新しい戦いを始めていたかと思うと

 

本当に、RAS®に出会えてよかった!

 

こんな仕組みだったんだ!と ここでやっとわかった!

 

【問題を解決しようとはしない】

「問題」と思ってしまっている自分の中にこそ 本当の「問題」がある。

ここが理解できれば、どれだけ平穏な気持ちになれることでしょうか。

 

ドタバタと動き回ることをやめて、自分と向き合う。

 

自分の「感情」を 自分自身に問う

 

「愛しているよ。大切にするからね。教えてくださいね。」

 

「そうなんだ!」と気づける度に 頑なで硬かった感情が溶けていきます。

 

そして、

自分の「正義」と他人の「正義」は 全く違うことを理解できました。

 

たとえ長年連れ添っても、

たとえ自分の子供であっても、

 

ひとりひとりの持つ「正しい」という考えは、全く違う。

 

「好き」「嫌い」が違うように、

 

「正しい」「正しくない」も違う。

 

 

RAS®の深い「解放」で

 

私は「愛してもらえない」と子供の頃から信じ込んでいたことがわかりました。

 

弟が生まれた瞬間だったようでした。

 

だから、たとえ愛してもらっても、それを信じることができなかったのでした。

 

「解放」したので、

「愛してもらえる」が始まりました。

 

素直に、愛を受け取ることができるようになったのです。

タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , ,

’健康のために’嫌いなものを我慢して食べる?

’健康のために’嫌いなものを我慢して食べる?

 

「生たまねぎ」嫌いです。f^_^;

加熱すると食べれるので、スライサーは有難い道具です。

以前は「健康のために」という意識が強くて、

自分が玉ねぎ嫌いだと気づかなかった。

 

相当な鈍感。f^_^;

 

「我慢している。」ということが「あたりまえ」。

だって「身体に良いものだから。」

 

身体のために我慢する。

 

「我慢する」から調子が悪くなってたんだ!


気づいてから、

 

生玉ねぎが食べられなくなりました。

 

それにしても、

なんで、玉ねぎが嫌いなんだろう?

何か原因がありそうです。

 

タグ: , , , , , , , , , , , , ,

言いにくいこと

「そろそろ

帰って欲しいんだけどなー」

と思いながら、言い出せない。

 

何が大事か

比べてしまっているようで、

申し訳ない気持ちが強くある。

 

思いきって、

正直に、

「そろそろ時間なの。」と言うと、

「あ!そうなんだ。

じゃ、帰るね。またね~~。」と、

意外と相手は気を悪くしたふうもなく、

あっけない反応をするものです。

 

「あんなに悩んでいたのに、

言ってみるもんだな。」

ということ、ありますよね。

 

すべてに

オープンでいられたら、

どんなに楽でしょう。

 

なんにも気にせずに、

その時、その瞬間に感じたことを

素直に言えたら

 

こんなとき、

相手が、どう感じるか?を

気にしています。

 

「えー! もっとしゃべろうよー!

楽しいのになんでー?」

と聞かれてしまったら、

 

「疲れたから。」

「やりたいことがあるの。」

「ボーイフレンドに電話したいの。」

「これ以上あなたといるより、

もっと大事なことがあるから。」

という理由があることを説明して、

 

それと

相手を比べていることを

知られるのが「怖い」

思っているようです。

 

どうして、

自分の感情を大事にするより、

人の反応を

気にしてしまうのでしょう?

 

それを「怖い」と

思っているのでしょう?

 

私も、

それは強く持っています。

 

なるべく相手に「いい気分」で

いてもらいたいから、

自分の感情を押さえてしまう。

 

相手が不快になってしまうことを

怖れています

 

自分が大事にしたいことや、

自分が「いい気分」で

いることよりも、

 

相手のことを強く気にしている。

 

 

自分のあたまで判断して、

「こんなこと言ったら、

嫌な気分になるだろうな。

だから言いにくいな。」と

勝手に想像しています。

 

でも、

自分に置き換えてみると、

 

相手が正直に言ってくれたら、

「そうなんだ」と

悪い気にもならずに

いられることの方が多いと思います。

 

むしろ、

「え?なんで?」と

怒ってしまいそうになる時、

 

どうして自分はそう思うのだろう?

と自分に問い直します。

 

「私といると疲れるの?」

「お菓子まで持ってきてあげたのに、

私と話すことより

やりたい事があるってどういうこと?」

 

「話したいことがあるって言ったの、

そっちじゃない!

時間をやりくりして、

わざわざここまで来たのに!」

 

自分の中に持っている

「感情」が出てきます。

 

ここに反応するから、

不快な怒りを感じるんだと気づきます。

 

「私といると疲れるの?」は、

自分もそういう経験があるから。

 

疲れていることを正直に

相手に伝えずに我慢していたから、

あとでグッタリ、

とても疲れてしまった。

 

という似たような過去の体験。

 

 

こんなことが原因で、

「え?なんで?」と、

ムッとした怒りの感情が出たことに

気づきます。

 

だから相手も同じで、

怒ってしまうのだと勝手に考えて

それを恐れているのです。

 

それどころか、

「少々疲れていても、我慢しなさいよ。」

とまで思っている

自分に気づいて驚くこともあります。

 

「私も我慢したんだから、

あなたができないことは無いでしょう。」

さすがに、そこまで

口に出しては言いませんが、

心の中で平然と、

当然のように思っている自分に

ビックリします。

 

我慢することを無意識に、

人にも押し付けているのです。

 

 

面白いですよね。

だって、こんな体験がなければ、

「あ!そうなんだ。」と

軽く受けとめて、

不快な感情を感じないで

いられたのです。

 

「疲れてるのね。

ゆっくり休んで

元気になって欲しいな。」

という

優しい気持ちを

相手に伝えられるほど、

 

豊かな感情にもなれます。

 

 

我慢することを

押し付けるなんてこと、

絶対思わないですよね。

 

優しい言葉のやりとりで、

私たちは満たされた幸福感を

感じることができるのに、

 

「言いにくいこと」を

持ち続けているということは、

自分の世界を狭くしている。

 

余裕のない心の、

傲慢な自分に気づいて、

自分が嫌になるほどに。

 

こうして

「自分に向き合う」ということが、

とっても大切なことだとわかります。

 

選択肢が狭い

ということは、

自分が

自分の感情を押さえているのが

原因。

 

考えが浅いわけでも、

神経質なわけでも、

我慢できない未熟者なわけでも

ないのです。

 

だから、

傲慢で嫌な自分ではない。

 

「感情」を「どう感じたか」の違いだけ。

 

押さえてしまった「感情」に気づくだけ。

 

実は、

これがわかってしまえば

簡単なことなのです。

 

過去の経験には、

思わぬ落とし穴があるのです。

 

自分が感じた

不快な感情を押さえてしまうと、

 

それをずーっと持ったまま、

「今」を生きているのです。

 

そして、

「言いにくいこと」を

言えずに繰り返していると、

 

「疲れた~」という不快感は、

さらに強く記憶に残るので、

 

さらに強く

「言いにくい」ことになっていきます。

 

押さえてしまった不快な感情が、

いったい何だったのかに

気付かない限り、

 

日々の生活の中で、

「言いにくいこと」

を増やしていくのです。

 

どんどん自分を不自由にしていく。

 

「なんにも気にせずに、

感じたことを素直に言える。」

ことなんて、

到底できない

「今」の自分のままで、

 

これからも

生きていかなきゃいけないなんて、

チョット悲しくなってしまいませんか。

 

で、

「疲れたのよ!」

大声で言いたくなる

状況にまで追い込まれて、

はじめて正直に言える。

 

そこまで追い込んだのは

自分なのに、

 

その時の相手に、

強い不快感を与えてしまうほどの

感情を、

強くぶつけることしかできなくなる。

 

我慢できない!

 

それだけは、

避けたかったから、

ここまで押さえてきたのにね~~

 

一番怖れていたことを、

やってしまわないと

気が済まないほど

追い込んでしまう。

 

そして、

爆発してしまった自分に

 

自分でビックリして、

 

「あー!悪いことした~~!

ごめんなさい!」と

 

そんな自分が嫌になってしまう。

 

それが一番怖いことだったのに。

 

 

そのままで済ませて、

忘れてしまおうとすると、

 

自分をそこまで追い込んだ、

不自由な状態の原因に

気づかないままになってしいます。

 

爆発したのはどうしてだろう?

という理由を

自分の中に探しに行く

貴重なタイミングです。

 

自分を嫌にならないで。

 

爆発することは、

悪いことではなくて、

むしろ、良いことなんです。

 

爆発するのが

早ければ早いほど、

周囲の人への被害も

軽傷で済みますしね。

 

ホントに、

すべてにオープンでいられたら、

どんなに楽でしょう。

 

生きているのですから、

 

強い感情を持つことも

当然ありますよ。

 

なんにも気にせずに、

感じたことを素直に言えたら、

 

爆発するのも、

とっても

小さな爆発でおさまりそうです。

 

そうできたら、

自分を嫌になったりもしない。

 

 

だから、

「言いにくいこと」は、

 

自分の中に持っている

「押さえてしまった感情」に

早く気づけるサイン。

 

そして、それは、

「言いにくいこと」

だけではなくて、

 

いろいろなことに

当てはまることが

理解できるようになります。

 

怒りっぽくなって、

大声で怒るのも、

 

心配で、

ひとのことまで関わろうとするのも、

 

泣き虫になってしまって、

ささいなことでも泣いてしまうのも、

 

外出するのも億劫で、

人と関わることが苦手なことにも、

 

とても人に会いたくなる時も、

 

嘘をついてしまうことも、

 

実はその心の中に、

強く押さえ続けている

「感情」があるから。

 

「お菓子まで持ってきてあげたのに。」

「わざわざここまで来たのに!」

は、

 

喜ばせたいほど好きな友人なのに、

相手はそこまで思ってくれてないの

かもしれない。と、

 

自分の思いと

相手の思いを比べている状態。

 

「思い」なんて、

いつもコロコロ変化して、

自分でも

大きさや形の定まらない

不安定なもので、

比較なんて

できないものなのは

分かっているつもりでも、

 

「お菓子」や「費やした時間」で

無理やり測ろうとしている状態。

 

そして、

「与えた」のだから

「与えてもらう」ことが当然。

という考えがあるからです。

 

「与えてもらえない」ことに

不快感を感じている。

 

「与えた」は=「与えたかった」。

そうしたかった

自分の本当の気持ちが、

「見返りを求めない純粋なもの」

であったら、

 

「与えられ」なくても、

ぜんぜん構わなかったはず。

 

喜んでくれる相手を

見ているだけで

嬉しいものです。

 

でも、

 

「見返りを求めない純粋なもの」

でないから、

「与えてもらう」が当然。

と思い込んでいます。

 

さて、「見返りを求める」のはなぜ?

 

これも、いろいろあると思います。

 

自分の話を聞いて欲しかったから。

 

自分にも

何か喜びを与えてもらいたかった。

 

自分が友人で

良かったと思ってもらいたいから。

 

などということを求めていたのカモしれませんよね。

 

あ!

「疲れても、我慢してもらいたい。」

もありますね。

 

自分の中だけでも、

これだけいろいろな

感情を抱えていて、

それらが複雑に

絡み合っているのです。

 

だから、

相手がどう感じるか?なんて、

全くわからない。

 

気にすることはない。

と思っても

いいんじゃないか?

 

「言いにくいな」と思っても、

言ってみましょう。

その時、

「言いにくいな」と思った

自分を見つめてみましょう。

 

そうして、

 

大切な自分の「いま」を

自由に使えなくしてしまうのは、

 

自分の感情を押さえてしまう

自分自身なんだ!と

 

ひとつひとつ、気づくことで、

 

隠しごとのない、

素直なままの、

オープンな自分を

堂々と表現できるようになれるのです。

 

ほんとうに、ひとつひとつ。

これまで、いろんなことがあったから、

たくさんたくさんあるでしょう。

 

でも、一つでも気づけたら、

それだけ自由になれるのです。

 

「疲れた~!」

「嬉しい!」

「それは残念です~!ガッカリ。」

「ムカムカしたのよ~!」

「呆れたわ!」

「悲しかったの~」

 

これまで

言いにくいと思っていた、

表現できないと思っていた、

たくさんたくさんの感情を

言葉に出していくことで、

生き生きとした自分になっていきます。

 

私も、

事あるごとに、

うまくいったり、いかなかったりを

繰り返していますが、

 

自由は、

こうやって

自分で得られるものなのだと、

驚きながら楽しんでいます。

 

とても狭かった世界が、

少しずつ広くなって、

とても

居心地が良くなってきています。

 

タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , , ,

子供への想い①

子供への想い①

 

一人めの子供は、

 

泣いたら すぐ だっこ。

 

その子に集中できるから、

直ぐに欲求を満たしてやれる。

 

授乳や病気など、

赤ちゃんの命を預かる緊張感で、

神経質になっていました。

 

四年後に二人め

その二年後に三人めを授かったので、

成長とともに、

徐々に手放していきましたが、

 

「想い」は誕生のころのまま。

 

「欲求を直ぐに満たしてやりたい。」

 

赤ちゃんじゃないのに、

親として してやれることは?と

自然に反応していまいます。

 

だっこは、しませんが、

 

気分はおんなじようなもの。

 

 

 

親になる。ということは、

 

自分のこと以外に

「しなくてはいけない」仕事を

引き受けるようなところがあります。

 

自分のことだけでも、結構、

「しなくてはいけない」を

持っているのに、

 

そこに、さらに、

増やしているわけです。

 

自分自身の成長とともに、

「しなくてはいけない」ものは

増えていて、

 

でも、

子供が生まれたら

その、「しなくてはいけない」

と思っていたことさえ、

できなくなってしまいます。

 

その上、

 

「したい」と思っていたことも、

できなくなってしまいます。

 

「我慢しなくてはいけない」

 

 

小さい頃は、

「我慢できない」と感じたら、

素直に言葉や態度で自己表現します。

 

うまく表現できないと、

泣いたり逃げたりという、

少し強い自己表現になっていきます。

 

でも、それが許されるのは、

環境によって、様々ですよね。

 

厳しい親や祖父母のもとでは、

「我慢する」ことが「良いこと」と

教えられることが多いものです。

 

親や祖父母も、

そういう環境で育ってきたから。

 

「我慢する」ことが幸せにつながる。

と、自分の体験から信じています。

 

「我慢しなくてはいけない」

 

 

自分に「しなくてはいけない」を

多く持っているひとは、

 

子育てにも

「しなくてはいけない」を

たくさん作り出すようです。

 

そして、

「欲求を直ぐに満たしてやりたい」と

思っている愛する我が子にさえも、

 

言葉が通じるようになると、

「しなくてはいけない」ということを

伝え始めます。

 

それが良いことだと信じているから。

 

我が子が

「泣く」ようなことにならないよう、

言葉で「だっこ」をしています。

 

そして、

 

やりたいことができなかった

自分自身の子供の頃を思い出し、

 

「好きなようにさせてやろう」と

思っていても、

それを許してやれない

親としての矛盾を抱えています。

 

それは、

「しなくてはいけないのか?」を

問い直すことでもあります。

 

自分のことも、子供のことも。

 

 

自分自身が持っている

「しなくてはいけない」という

考えに向き合うことになるのです。

 

 

我慢して、

したいことができなかった自分。

 

それが、幸せだったのか?

 

 

今、生活の周りにあるものは、

そういう考えで

自分が選んできたものです。

 

仕事、人間関係、服装、住居、

家電製品や雑貨類、

日々の食べるものや、読む本、

テレビ番組、映画、

起きる時間、食事の時間、

入浴のタイミング、などなど、、

 

すべてです。

 

私の思いのとおりの 

好きなものなのか?

 

それで私が幸福を感じているのか?

 

 

そして、我が子が見せてくれるいろいろなこと。

 

私が産んで育てても、

「命」は本人だけのもの。

 

「息子」や「娘」であっても、

「幸福」は本人が感じるもの。

 

 

そう考えて、

少し離れた目線から

見ることができるようになると、

 

 

もう、「だっこ」は必要ないよね。

 

と、思えるものが、結構あるようです。

 

 

「しなくてはいけないのか?」は、

本人が決めること。

 

 

できるだけ子供が小さいうちに、

こんなことに気づけるといいですよね。

 

タグ: , , , , , , , , , , , , , ,