「手放す」ことの大切さ

「手放す」ことの大切さ

過去の多くの場面で
たくさんあった選択肢の中から
選んできたものに
いま、わたしは囲まれている。

 

「やる?」「やらない?」
なら

必ず「やる!」

決めていた。

 

やらないで
出た結果に後悔したくない。

できるだけのことを
やり尽くしてみたい。

 

でも、
あとになって
「なんでこんなことしたんだろう?」

感じることもある。

 

それでも

「やってみたい!」と
強く思って始めたことは

なかなか終わらせることが
できないものでした。

 

そこに
「感情」がくっついているから。

 

外に向けてのプライド

自分は間違っていない
という「良い悪い」のジャッジ

誰かに迷惑をかける罪悪感

挫折という自己否定

そして
自分を許せない。

他人には理解できない
意味不明な行動には

 

こんなものたちが
いつのまにかくっついていて
動けなくなってしまう

 

カラクリがありました。

 

 

それは時間が経つにつれ、

注がれ続けた

のような作用をもたらす
こともあります。

 

 

たった一つの過ちに
いつまでも囚われて
どんどん自分を
傷つけていく。

 

こんな人の姿を
身近で何人も見てきました。

 

それは

どんなに頭が良くても
どんなに頑丈な身体でも
どんな地位にあろうとも

心の中の
やわらかい部分は
繊細なものです。

 

 

むしろ

「強くあらねば!」
「正しくあらねば!」と
思う人ほど

強く自分を縛って
過ちを許せない。

「なんて奴なんだ!」
「これじゃダメだ!」

 

はやく そこに気づいて!
何度も言いたい衝動を
抑えて

 

自分で気づく
「学習」を
していただくしか
ありません。

 

わたし自身も
そうやって
自分で気づいたからこそ
手放せた。

 

傷つけているのは
自分自身なんだと
自分で納得したから
行動できたのですから。

 

もっともっと気楽に
楽しく
自由に

 

「やっちゃったな〜〜」
「できない自分も許そう」
「はい!次に行こう!」と
軽いフットワークになるために

 

「手放す」ことが どれだけ大切か。

 

いっぱい
くっつけてしまっていた
「感情」を
解放できる方法が
あることを

 

もっともっと
たくさんの人に
知っていただきたいです。

 

その「感情」を

四六時中感じ続けて

自分が自分を傷つけていることが

どれだけ不幸なことであるかに

気づいていただきたいのです。

 

RAS®︎のセッションでは
ストレスの原因となる
「感情」を
身体から直接導き出します。

 

そして
自分の力で
手放していく
「学習」をすることで

 

本人にしかできない
本人だけの問題の
形を変えていく。

 

「なんでこんなことしたんだろう」

少しでも離れてみることが
できるようになると
次に進むことが
できますよね。

 

いつまでも
囚われ続けない
区切りをつけることが
どれだけ大切なことか。

 

 

新しいキャンバスに
自由な自分を描いて
毎日、まったく違う絵を
重ねていける日々って
楽しいと思います。

 

 

 

 

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自分と向き合う

自分と向き合う

 

朝 目がさめると、まず、

「どう?」と 心に問う。

 

「いい感じよ〜〜」みたいに
言葉で返ってくるわけではない。

 

五感ではない、
もっと繊細な感覚。

 

布団を出て動き出してしまうと
失ってしまいそうな

 

のような感覚。

 

たとえて言うと、

 

「ただいまー」と
帰ってきた子供の

 

その声と、

 

「お帰りー」と
応じながら見る

 

姿と動き、

 

(ご機嫌ね。)の時もあるが、

 

(楽しいばっかりじゃ なかったんだな。)

を感じ取る時もある。

 

一瞬で受け取り

 

(そうなのね。)と思いながら

 

直接は問わない。

 

まだ、言葉にできない
モヤモヤしたかたまりなのか、

 

言ったら私にどう言われるかを
警戒しているのか、

 

子供が何か口にするまでは、
待っておく。

 

こちらから問うてしまうと
風が吹いてしまい
散ってしまう

 

霞。

 

母親が無意識に
子供に向けてやっていること。

 

 

「場の空気を読む」 というのにも
似ている。

 

自分の主観を入れずに

 

身体全体から
入ってくる情報を

『なんだ?』と
感じ取ろうとする時、

 

目にはいってくるものを
一つ一つ
考えていては
ついていけない、

 

手放し状態。

 

集中
とも違う。

 

心の感覚の網を
パッと広げて
どこかでキャッチ
しようとする
ような
センサー

 

その場を管理する者が
無意識にやっていること。

 

 

それを
外側に向けずに 内側でする。

 

 

ついこの前までは

 

心臓の横に
つめたーい石のかたまり
があるような
感じがしていた。

 

それが、
だんだん小さくなり
あたたかくなり
やわらかくなり

 

かたまりはなくなった。

 

「しなくてはいけない」
を手放し、
「したい」ことを
増やして
きたおかげ。

 

こんなことさえ
わからなくなっていた。

 

義務
責任
負担

 

の中に
埋め込んでいた「自分」を
発掘作業し始めた。

 

化石と化していた
かたく冷たい かたまりを

叩くのではなく、

 

ホコリをはらって
両手で包んで
あたためてきた。

 

こんなところにあったんだ。
私の大切な宝が。

 

気づけてよかった。

 

いまは

やわらかな熱を帯びた
小さな太陽が
あることを
感じ取れる。

 

心臓の鼓動とともに
その太陽の輝きが
全身をめぐっている。

 

でも、そのめぐりは

霞のように繊細だから
強い風に
吹き飛んでしまう。

 

悲しみ
恐怖
不安
緊張

 

ビリビリと稲妻が這う
その嵐の中でも

 

心臓の横にある
小さな太陽は
確かに ある。

 

もう、冷たい石じゃないから、

思い出したら
いつでも
そこに戻ってあたたまれる。

 

 

「ただいま!」の
顔が 晴れ晴れしているように。

 

ドッと笑いが満ちた会場の
濃くなった 空気のように。

 

輝く光の粒子が
いつまでも舞っていて
それを
からだに纏って動き続ける

 

イメージができたら
OKサイン。

 

布団を出てスタート!

 

 

 

 

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この野郎!

この野郎!

 

 

この野郎!

こんなことでいいと思っているのか!

この野郎!

こんなことやっちまいやがって!

この野郎!

こんな簡単こともできないのか!

この野郎!

こんな当たり前のことも知らないのか!

この野郎!

こんな大切なことを忘れてしまったのか!

この野郎!

こんな単純なことも考えられないのか!

この野郎!

いつまでグズグズしてるんだ!

この野郎!

こんな大事な時に何やってんだ!

この野郎!

つまりはお前になんかに

才能なんてありはしないんだ!

この野郎!

自分が特別だなんて

思ってるんしゃないのか?

この野郎!

もっとしっかりしないと

ダメじゃないか!

この野郎!

偉そうなこと言っても、

自分はどうなんだ!

 

この野郎!何に苦しんでるんだ?

この野郎!幸せじゃないのか?

この野郎!なんで動けないんだ?

 

 

この野郎!

これでいいんじゃないか?

この野郎!

こんなことできなくて

いいんじゃないか?

この野郎!

こんなこと知らなくても

いいんじゃないか?

この野郎!

こんな大切なことでも

お前が要らないなら

忘れていいんじゃないか?

この野郎!

こんなこと考えられなくて

いいんじゃないか?

この野郎!

ゆっくりしてれば

いいんじゃないか?

この野郎!

こんな大事な時だから

楽しんでいいよな!

この野郎!

やりたいことが

才能なんだよな!

この野郎!

自分は特別大事なんだぞ!

いなくなったら困るからな!

この野郎!

出来ないことやしたく

ないことは

しなくていいんだぞ!

この野郎!

自分が感じたら、

言ったらいいんだぞ!

 

 

この野郎!

 

そのまんまで いいんじゃないのか?

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問題は解決しようとはしないこと(離婚編)

問題は解決しようとはしないこと(離婚編)

 

「離婚したい!」と裁判をしていた時は、

「離婚できない」という「問題」の解決をしようとしていました。

 

【問題は解決しようとはしないこと】

 

実は、

その問題の根っこは「恐れ」でした。

 

【その時点で感じていた「恐れ」は】

 

「このままでは、一生 自由に生きられない。

生活を管理され、コントロールされ、

私は自分の感情を抑え続けなければならない。」

 

「私が正しい。」

と強く思っていたので、

同じ強さで相手は攻撃してきました。

 

子供たちまで不安にさせ、悲しい思いをさせながら、闘いを長く続けました。

 

ようやく

「離婚」できて、「問題を解決」したはずなのに、落ち着きませんでした。

 

 

【根っこの「恐れ」を残したままだったから】

 

 

自分を管理して、コントロールして、不自由にさせていた。

感情を抑え続けて我慢していた。

 

ほんとうの原因は、私自身にあった

 

だから、

 

自由になれたのに、

「これからどうしたらいいのか?」と

不安が日増しに大きくなっていくことを

どうしようもないまま、

あれこれと試行錯誤を続け。

 

「いつかは、身体がついていけなくなりそうだな」という不安も重なっていきました。

 

 

【「恐れ」は私が 私自身に対して抱いていた感情】

 

あのままいけば、きっと、無理をし続けて、病気になっていた。

先行きの不安から逃れるために動き続けて

安心を求めるあてのない彷徨の末の挫折。

 

裁判の相手は

それを知らせてくれただけ。

 

私が闘っていたものは、

私が作り出した幻想でした。

 

目の前の「問題」だと考えていたものは

本当の「私の問題」に気づくためのサイン。赤信号 だった。

 

 

相手は、心から心配してくれていた。

 

私や子供たちのことを。

 

相手なりのやり方で、それを解決しようとしていた。

相手が「正しい」と信じた方法で。

 

でも、

それを、受け取る私には

攻撃されているとしか思えなかった。

 

私の批判ばかりして、

自分の非を認めようとしないから。

動けなくさせようと

押さえ込む方法ばかりを仕掛けてきたから。

 

私は持ち前の思いっきりの良さで、

それまでしたことのないことばかりに挑戦して、

 

「バカにしないでよ!」と

行動で示そうとしていた。

 

自分が正しい。

自分には権利がある。

自分には行動力がある。

自分には能力がある。

 

相手に助けてもらわなくても

ひとりで人生を生きていく力があるんだ!

 

相手が間違っていて、

自分は正しいんだ!と強調するために。

 

それは「復讐」でした。

私が囚われていたことへの。

 

家族のために頑張ってきた。

家族のために我慢してきた。

家族のために尽くしてきた。

のに、

それを全く評価してもらえない

 

挫折感。焦燥感。

 

そして「怒り」を

 

動きまわり、いろいろなことをすることで

 

「復讐」という形で表現しようとしていた。

 

 

【私が気づいていなかった「大切なこと」を知らせるために 起こってくれた「問題」でした。】

 

「私が囚われていた」のではなく「私が私を縛り付けていた」

 

 

何か手立てはないものかと、「それまで学んできたもの」を いろいろ試してもみましたが、

攻撃されていると思い込んでいたので、反撃することしか思いつきません。

 

「相手の立場に立って考えましょう。」

↑そりゃあ離婚となれば都合悪いでしょうね。そっちが悪いんですから。

そちらの思い通りになんか なるもんですか!

 

「同じステージに答えはありません。離れたところから見るようにしましょう。」

↑俯瞰してみても、どう考えても 批判され攻撃されてるとしか感じられない!

誰が見たって相手が悪いでしょう!  私は被害者なんだわ!

 

「そういうことを改めて考え直す『暦』である。」

↑人生の転機ならば、仕方がない。結婚に向かない誕生日らしいし。

これまで我慢してきたことを爆発させるチャンスなんだわ!

 

「子供のことを考えて。」

↑子供まで管理して押さえ込もうとするなんて許せない。

私の方が正しいんだから、子供は私が守るんだ!

 

押さえきれない腹立ちまぎれに 愚かな考えを必死に繰り返していました。

 

自分が正しくて、相手が間違っているんだ!

 

こんな単純なことなのに、どうしてさっさと終わらせられないのか わからない!

 

自分の正義と相手の正義の違いや

価値観の違いなどにまで、配慮できない狭い心の中で、

 

ただただ「恐怖」と戦っていたのでした。

 

自分が間違っているなどと微塵も認めたくはない。 という「恐怖感」。

 

たとえ「離婚裁判」という形の問題とならなかったとしても、

違う形で必ず何かが起こっていたでしょう。

私が「大切なこと」に気づくまで。

 

【私がそれまで おろそかにしていたこと…自分自身を見つめること】

 

誰の人生なの?

誰の感情なの?

誰の身体なの?

それで幸せなの?

それで楽しいの?

そのままでいいの?

 

いやだ!

 

と 強い感情が生まれて、爆発したのは

この「離婚」という問題のおかげでした。

 

違う形で起こっていても、離婚はしたかもしれません。

でも、関わった人間に、もっと思いやりをもって話を進められたかも。

もっと穏便に、冷静に、お互いが納得して終わらせることができたかも。

 

しかし、

私は「離婚裁判」という戦いとなりました。

 

示談も、調停も、不調に終わってしまったからです。

相手が応じてくれなかったから。

 

でも、それも、私が頑なに「自分が正しい」と貫き通そうとしたから。

 

相手が私の「鏡」になってくれて、示談にも調停にも応じなかった。

 

徹底的に闘って、心に大きな傷を作り、精根尽きるほど疲れました。

 

そこまでしないと私は気づけなかった。

それだけ頑固で直情型で型破りだから。

 

気づかないままでいたら、

「幻想」もそのまま。

何か起こるたびに「幻想」に立ち向かうだけ。

 

【問題は解決しようとはしないこと】

  • その時感じる「感情」に注意を向ける。
  • なぜ、恐怖を感じるのか?
  • なぜ、そう受け取ってしまうのか?
  • なぜ、怒りを感じるのか?
  • なぜ、悲しいと感じるのか?
  • なぜ、焦ってしまうのか?
  • なぜ、自分が正しいと強調しようとするのか?

そして

それは、自分が自分に向けて していることではないのか?

「なんで そんなこと するの?」と受け取ってしまう攻撃は

私が自分にしていること」を教えてくれていた。自分自身を攻撃している。

【それが「問題の奥にある ほんとうに大事なこと」でした。】

 

  • 私は、私には力がない と 思っていた。
  • 自分の人生の責任を100パーセント請け負う自信がなかった。
  • 私は、真剣に自分を幸せにしようと向かい合っていなかった。
  • 私は、自分の意見を主張することを わがままだと思っていた。
  • 私は、できない自分を批判するばかりで、愛せなかった。

自分にこんな酷いことをしていた

 

それを教えてくれる出来事が、

家族や親戚を心配させ、巻き込んだ「裁判」という形で現れ、

離婚することになったのです。

 

心の底で、

認めたくないと思っていた感情。

私にほんとうに必要だったものを獲得しようとする「戦い」

 

そう!

「戦っていたんだ! 自分の心の中で!」

 

RAS®に出会ったおかげで、やっと気づくことができました。

 

あのまま知らないで、また新しい戦いを始めていたかと思うと

 

本当に、RAS®に出会えてよかった!

 

こんな仕組みだったんだ!と ここでやっとわかった!

 

【問題を解決しようとはしない】

「問題」と思ってしまっている自分の中にこそ 本当の「問題」がある。

ここが理解できれば、どれだけ平穏な気持ちになれることでしょうか。

 

ドタバタと動き回ることをやめて、自分と向き合う。

 

自分の「感情」を 自分自身に問う

 

「愛しているよ。大切にするからね。教えてくださいね。」

 

「そうなんだ!」と気づける度に 頑なで硬かった感情が溶けていきます。

 

そして、

自分の「正義」と他人の「正義」は 全く違うことを理解できました。

 

たとえ長年連れ添っても、

たとえ自分の子供であっても、

 

ひとりひとりの持つ「正しい」という考えは、全く違う。

 

「好き」「嫌い」が違うように、

 

「正しい」「正しくない」も違う。

 

 

RAS®の深い「解放」で

 

私は「愛してもらえない」と子供の頃から信じ込んでいたことがわかりました。

 

弟が生まれた瞬間だったようでした。

 

だから、たとえ愛してもらっても、それを信じることができなかったのでした。

 

「解放」したので、

「愛してもらえる」が始まりました。

 

素直に、愛を受け取ることができるようになったのです。

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言いにくいこと

「そろそろ

帰って欲しいんだけどなー」

と思いながら、言い出せない。

 

何が大事か

比べてしまっているようで、

申し訳ない気持ちが強くある。

 

思いきって、

正直に、

「そろそろ時間なの。」と言うと、

「あ!そうなんだ。

じゃ、帰るね。またね~~。」と、

意外と相手は気を悪くしたふうもなく、

あっけない反応をするものです。

 

「あんなに悩んでいたのに、

言ってみるもんだな。」

ということ、ありますよね。

 

すべてに

オープンでいられたら、

どんなに楽でしょう。

 

なんにも気にせずに、

その時、その瞬間に感じたことを

素直に言えたら

 

こんなとき、

相手が、どう感じるか?を

気にしています。

 

「えー! もっとしゃべろうよー!

楽しいのになんでー?」

と聞かれてしまったら、

 

「疲れたから。」

「やりたいことがあるの。」

「ボーイフレンドに電話したいの。」

「これ以上あなたといるより、

もっと大事なことがあるから。」

という理由があることを説明して、

 

それと

相手を比べていることを

知られるのが「怖い」

思っているようです。

 

どうして、

自分の感情を大事にするより、

人の反応を

気にしてしまうのでしょう?

 

それを「怖い」と

思っているのでしょう?

 

私も、

それは強く持っています。

 

なるべく相手に「いい気分」で

いてもらいたいから、

自分の感情を押さえてしまう。

 

相手が不快になってしまうことを

怖れています

 

自分が大事にしたいことや、

自分が「いい気分」で

いることよりも、

 

相手のことを強く気にしている。

 

 

自分のあたまで判断して、

「こんなこと言ったら、

嫌な気分になるだろうな。

だから言いにくいな。」と

勝手に想像しています。

 

でも、

自分に置き換えてみると、

 

相手が正直に言ってくれたら、

「そうなんだ」と

悪い気にもならずに

いられることの方が多いと思います。

 

むしろ、

「え?なんで?」と

怒ってしまいそうになる時、

 

どうして自分はそう思うのだろう?

と自分に問い直します。

 

「私といると疲れるの?」

「お菓子まで持ってきてあげたのに、

私と話すことより

やりたい事があるってどういうこと?」

 

「話したいことがあるって言ったの、

そっちじゃない!

時間をやりくりして、

わざわざここまで来たのに!」

 

自分の中に持っている

「感情」が出てきます。

 

ここに反応するから、

不快な怒りを感じるんだと気づきます。

 

「私といると疲れるの?」は、

自分もそういう経験があるから。

 

疲れていることを正直に

相手に伝えずに我慢していたから、

あとでグッタリ、

とても疲れてしまった。

 

という似たような過去の体験。

 

 

こんなことが原因で、

「え?なんで?」と、

ムッとした怒りの感情が出たことに

気づきます。

 

だから相手も同じで、

怒ってしまうのだと勝手に考えて

それを恐れているのです。

 

それどころか、

「少々疲れていても、我慢しなさいよ。」

とまで思っている

自分に気づいて驚くこともあります。

 

「私も我慢したんだから、

あなたができないことは無いでしょう。」

さすがに、そこまで

口に出しては言いませんが、

心の中で平然と、

当然のように思っている自分に

ビックリします。

 

我慢することを無意識に、

人にも押し付けているのです。

 

 

面白いですよね。

だって、こんな体験がなければ、

「あ!そうなんだ。」と

軽く受けとめて、

不快な感情を感じないで

いられたのです。

 

「疲れてるのね。

ゆっくり休んで

元気になって欲しいな。」

という

優しい気持ちを

相手に伝えられるほど、

 

豊かな感情にもなれます。

 

 

我慢することを

押し付けるなんてこと、

絶対思わないですよね。

 

優しい言葉のやりとりで、

私たちは満たされた幸福感を

感じることができるのに、

 

「言いにくいこと」を

持ち続けているということは、

自分の世界を狭くしている。

 

余裕のない心の、

傲慢な自分に気づいて、

自分が嫌になるほどに。

 

こうして

「自分に向き合う」ということが、

とっても大切なことだとわかります。

 

選択肢が狭い

ということは、

自分が

自分の感情を押さえているのが

原因。

 

考えが浅いわけでも、

神経質なわけでも、

我慢できない未熟者なわけでも

ないのです。

 

だから、

傲慢で嫌な自分ではない。

 

「感情」を「どう感じたか」の違いだけ。

 

押さえてしまった「感情」に気づくだけ。

 

実は、

これがわかってしまえば

簡単なことなのです。

 

過去の経験には、

思わぬ落とし穴があるのです。

 

自分が感じた

不快な感情を押さえてしまうと、

 

それをずーっと持ったまま、

「今」を生きているのです。

 

そして、

「言いにくいこと」を

言えずに繰り返していると、

 

「疲れた~」という不快感は、

さらに強く記憶に残るので、

 

さらに強く

「言いにくい」ことになっていきます。

 

押さえてしまった不快な感情が、

いったい何だったのかに

気付かない限り、

 

日々の生活の中で、

「言いにくいこと」

を増やしていくのです。

 

どんどん自分を不自由にしていく。

 

「なんにも気にせずに、

感じたことを素直に言える。」

ことなんて、

到底できない

「今」の自分のままで、

 

これからも

生きていかなきゃいけないなんて、

チョット悲しくなってしまいませんか。

 

で、

「疲れたのよ!」

大声で言いたくなる

状況にまで追い込まれて、

はじめて正直に言える。

 

そこまで追い込んだのは

自分なのに、

 

その時の相手に、

強い不快感を与えてしまうほどの

感情を、

強くぶつけることしかできなくなる。

 

我慢できない!

 

それだけは、

避けたかったから、

ここまで押さえてきたのにね~~

 

一番怖れていたことを、

やってしまわないと

気が済まないほど

追い込んでしまう。

 

そして、

爆発してしまった自分に

 

自分でビックリして、

 

「あー!悪いことした~~!

ごめんなさい!」と

 

そんな自分が嫌になってしまう。

 

それが一番怖いことだったのに。

 

 

そのままで済ませて、

忘れてしまおうとすると、

 

自分をそこまで追い込んだ、

不自由な状態の原因に

気づかないままになってしいます。

 

爆発したのはどうしてだろう?

という理由を

自分の中に探しに行く

貴重なタイミングです。

 

自分を嫌にならないで。

 

爆発することは、

悪いことではなくて、

むしろ、良いことなんです。

 

爆発するのが

早ければ早いほど、

周囲の人への被害も

軽傷で済みますしね。

 

ホントに、

すべてにオープンでいられたら、

どんなに楽でしょう。

 

生きているのですから、

 

強い感情を持つことも

当然ありますよ。

 

なんにも気にせずに、

感じたことを素直に言えたら、

 

爆発するのも、

とっても

小さな爆発でおさまりそうです。

 

そうできたら、

自分を嫌になったりもしない。

 

 

だから、

「言いにくいこと」は、

 

自分の中に持っている

「押さえてしまった感情」に

早く気づけるサイン。

 

そして、それは、

「言いにくいこと」

だけではなくて、

 

いろいろなことに

当てはまることが

理解できるようになります。

 

怒りっぽくなって、

大声で怒るのも、

 

心配で、

ひとのことまで関わろうとするのも、

 

泣き虫になってしまって、

ささいなことでも泣いてしまうのも、

 

外出するのも億劫で、

人と関わることが苦手なことにも、

 

とても人に会いたくなる時も、

 

嘘をついてしまうことも、

 

実はその心の中に、

強く押さえ続けている

「感情」があるから。

 

「お菓子まで持ってきてあげたのに。」

「わざわざここまで来たのに!」

は、

 

喜ばせたいほど好きな友人なのに、

相手はそこまで思ってくれてないの

かもしれない。と、

 

自分の思いと

相手の思いを比べている状態。

 

「思い」なんて、

いつもコロコロ変化して、

自分でも

大きさや形の定まらない

不安定なもので、

比較なんて

できないものなのは

分かっているつもりでも、

 

「お菓子」や「費やした時間」で

無理やり測ろうとしている状態。

 

そして、

「与えた」のだから

「与えてもらう」ことが当然。

という考えがあるからです。

 

「与えてもらえない」ことに

不快感を感じている。

 

「与えた」は=「与えたかった」。

そうしたかった

自分の本当の気持ちが、

「見返りを求めない純粋なもの」

であったら、

 

「与えられ」なくても、

ぜんぜん構わなかったはず。

 

喜んでくれる相手を

見ているだけで

嬉しいものです。

 

でも、

 

「見返りを求めない純粋なもの」

でないから、

「与えてもらう」が当然。

と思い込んでいます。

 

さて、「見返りを求める」のはなぜ?

 

これも、いろいろあると思います。

 

自分の話を聞いて欲しかったから。

 

自分にも

何か喜びを与えてもらいたかった。

 

自分が友人で

良かったと思ってもらいたいから。

 

などということを求めていたのカモしれませんよね。

 

あ!

「疲れても、我慢してもらいたい。」

もありますね。

 

自分の中だけでも、

これだけいろいろな

感情を抱えていて、

それらが複雑に

絡み合っているのです。

 

だから、

相手がどう感じるか?なんて、

全くわからない。

 

気にすることはない。

と思っても

いいんじゃないか?

 

「言いにくいな」と思っても、

言ってみましょう。

その時、

「言いにくいな」と思った

自分を見つめてみましょう。

 

そうして、

 

大切な自分の「いま」を

自由に使えなくしてしまうのは、

 

自分の感情を押さえてしまう

自分自身なんだ!と

 

ひとつひとつ、気づくことで、

 

隠しごとのない、

素直なままの、

オープンな自分を

堂々と表現できるようになれるのです。

 

ほんとうに、ひとつひとつ。

これまで、いろんなことがあったから、

たくさんたくさんあるでしょう。

 

でも、一つでも気づけたら、

それだけ自由になれるのです。

 

「疲れた~!」

「嬉しい!」

「それは残念です~!ガッカリ。」

「ムカムカしたのよ~!」

「呆れたわ!」

「悲しかったの~」

 

これまで

言いにくいと思っていた、

表現できないと思っていた、

たくさんたくさんの感情を

言葉に出していくことで、

生き生きとした自分になっていきます。

 

私も、

事あるごとに、

うまくいったり、いかなかったりを

繰り返していますが、

 

自由は、

こうやって

自分で得られるものなのだと、

驚きながら楽しんでいます。

 

とても狭かった世界が、

少しずつ広くなって、

とても

居心地が良くなってきています。

 

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兄弟姉妹という環境

兄弟姉妹という環境

 

弟と手をつないで歩いた小さかった頃。

 

迎えを待ちわびて、保育園の

玄関のガラスに張り付いて

私を見つけた笑顔を

忘れることはありません。

 

どんどん変化する環境の中で、

一緒に驚き、楽しみながら、

ともに成長してきた同士。

 

兄弟姉妹は、

おなじ「家族」という環境設定のなかで

育てられながら

「ものの考え方」を学んでいきます。

 

だから、

性格や能力は違っても、

ものごとに対する「考え方」は

とても似ています。

 

 

私たち姉弟は、

とても厳しく躾けられたので、

 

「我慢しなくてはいけない」

 

という考えを、

とても強く握っていたようです。

 

ものごとがスムーズに進むのならば、

自分が本当にしたいことを

我慢するのが当たり前。

と、いつも思っていたのです。

 

結婚して、子供ができると、

「家族のために」

自分を犠牲にすることが、

良いことだとさえ思いはじめます。

 

仕事で疲れていても、

体調が悪くても、

 

「理想の家族」という形を崩さない

ことを最優先とすることで、

 

自分に課せられた責任を

果たしていることが

「良いこと」と信じて

満足してしまうのです。

 

順調に行っている間は良いのですが、

体調が悪くなったり、

経済的な支障が出てきた時に

問題が表面化します。

 

本来ならば、

それ以上の我慢を重ねることよりも、

 

家族に協力してもらって、

治療に専念したり、

 

出費を抑えるために

生活の内容を変えていけば

良いのですが。。

 

我慢を重ねているひとは

 

ひとに頼ることさえも、

我慢してしまいます。

 

家族に我慢をさせることは、

自分がワガママなのだ

とさえ思ってしまい、

 

その不快感よりは、

 

やっぱり自分が我慢をする方を

選んでしまうのです。

 

「我慢しなくてはいけない」という考えは、

「我慢できない」という感情を、

押さえて、

蓋をして、

なかったことにしようとします。

 

自分が「我慢」しさえすれば、

ひとに我慢させることはない。

 

それが「良いこと」。と、

それまで生きてきた中で、

自分で作り上げた考えに縛られ続けていると、

 

それを知らせるために、

出来事が起こり始めます。

 

それは、

 

「このままいったら、

 身体を悪くして、

 動けなくなってしまいますよ!」

 

という、身体からのサインであったり、

 

 

「それで、あなたは、

 本当に幸せなんですか?」

 

と、

考え直さなくてはいけない出来事。

 

たとえば、

さらに我慢しなくてはいけないような

状況にさらされることが起こって、

 

「え!これ以上は、さすがに我慢できないわ!」

となります。

 

そんなことが始まっているのに、

まだ

なかなか気づくことができないと、

 

さらに深刻なことが起こり始めます。

 

動けなくなって、

どうにもならなくなって、

はじめて、

「すみません!よろしくお願いします!」

 

と観念させられるのです。

 

 

我慢が「良いこと」なのか?

 

「感情」を押さえていることが

「良いこと」なのか?

 

学校の成績が良い人ほど、

この傾向は強いのでは?と、

弟を見ていて感じました。

 

結果に対する

執着が強いのでしょうか?

 

挫折を感じる経験が少ないと、

挫折する自分を

許せなくなるのでしょうか?

 

 

自分はどうしたいのか?

 

子どものように笑顔を見せてくれたり、

 

鼻を押さえながらガラスにへばりついて

迎えを待っていたり、

 

大声を出して怒ってくれたら

 

とても分かりやすいですよね。

 

 

弟は「病気」

私は「出来事」

で、観念させられて、

 

ようやく

「我慢できないです!すみません!

よろしくお願いします!」

 

と、なりました。

 

大変な出来事でしたが、

もし、それが無かったら、

 

さらに我慢を続けるという、

自分を自分の考えの奴隷

してしまっていたでしょう。

 

「考える」ことは、大切ですが、

「感じる」ことの

大切さを教えてもらうことは、

とても少ないように思います。

 

「感じる」ことこそ

「生きている」こと。

 

幸せな人生は「感じる」もの。

 

小さい頃から、社会に出るまでを

一緒に過ごしていた私たちが、

ここにきて、

 

一緒に大切なものを

見直すことになったのは、

 

「家族」という環境設定の中に、

 

実は、

大きな課題を持っていて、

 

それに気づくタイミングだったのでした。

 

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