「手放す」ことの大切さ

「手放す」ことの大切さ

過去の多くの場面で
たくさんあった選択肢の中から
選んできたものに
いま、わたしは囲まれている。

 

「やる?」「やらない?」
なら

必ず「やる!」

決めていた。

 

やらないで
出た結果に後悔したくない。

できるだけのことを
やり尽くしてみたい。

 

でも、
あとになって
「なんでこんなことしたんだろう?」

感じることもある。

 

それでも

「やってみたい!」と
強く思って始めたことは

なかなか終わらせることが
できないものでした。

 

そこに
「感情」がくっついているから。

 

外に向けてのプライド

自分は間違っていない
という「良い悪い」のジャッジ

誰かに迷惑をかける罪悪感

挫折という自己否定

そして
自分を許せない。

他人には理解できない
意味不明な行動には

 

こんなものたちが
いつのまにかくっついていて
動けなくなってしまう

 

カラクリがありました。

 

 

それは時間が経つにつれ、

注がれ続けた

のような作用をもたらす
こともあります。

 

 

たった一つの過ちに
いつまでも囚われて
どんどん自分を
傷つけていく。

 

こんな人の姿を
身近で何人も見てきました。

 

それは

どんなに頭が良くても
どんなに頑丈な身体でも
どんな地位にあろうとも

心の中の
やわらかい部分は
繊細なものです。

 

 

むしろ

「強くあらねば!」
「正しくあらねば!」と
思う人ほど

強く自分を縛って
過ちを許せない。

「なんて奴なんだ!」
「これじゃダメだ!」

 

はやく そこに気づいて!
何度も言いたい衝動を
抑えて

 

自分で気づく
「学習」を
していただくしか
ありません。

 

わたし自身も
そうやって
自分で気づいたからこそ
手放せた。

 

傷つけているのは
自分自身なんだと
自分で納得したから
行動できたのですから。

 

もっともっと気楽に
楽しく
自由に

 

「やっちゃったな〜〜」
「できない自分も許そう」
「はい!次に行こう!」と
軽いフットワークになるために

 

「手放す」ことが どれだけ大切か。

 

いっぱい
くっつけてしまっていた
「感情」を
解放できる方法が
あることを

 

もっともっと
たくさんの人に
知っていただきたいです。

 

その「感情」を

四六時中感じ続けて

自分が自分を傷つけていることが

どれだけ不幸なことであるかに

気づいていただきたいのです。

 

RAS®︎のセッションでは
ストレスの原因となる
「感情」を
身体から直接導き出します。

 

そして
自分の力で
手放していく
「学習」をすることで

 

本人にしかできない
本人だけの問題の
形を変えていく。

 

「なんでこんなことしたんだろう」

少しでも離れてみることが
できるようになると
次に進むことが
できますよね。

 

いつまでも
囚われ続けない
区切りをつけることが
どれだけ大切なことか。

 

 

新しいキャンバスに
自由な自分を描いて
毎日、まったく違う絵を
重ねていける日々って
楽しいと思います。

 

 

 

 

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自分と向き合う

自分と向き合う

 

朝 目がさめると、まず、

「どう?」と 心に問う。

 

「いい感じよ〜〜」みたいに
言葉で返ってくるわけではない。

 

五感ではない、
もっと繊細な感覚。

 

布団を出て動き出してしまうと
失ってしまいそうな

 

のような感覚。

 

たとえて言うと、

 

「ただいまー」と
帰ってきた子供の

 

その声と、

 

「お帰りー」と
応じながら見る

 

姿と動き、

 

(ご機嫌ね。)の時もあるが、

 

(楽しいばっかりじゃ なかったんだな。)

を感じ取る時もある。

 

一瞬で受け取り

 

(そうなのね。)と思いながら

 

直接は問わない。

 

まだ、言葉にできない
モヤモヤしたかたまりなのか、

 

言ったら私にどう言われるかを
警戒しているのか、

 

子供が何か口にするまでは、
待っておく。

 

こちらから問うてしまうと
風が吹いてしまい
散ってしまう

 

霞。

 

母親が無意識に
子供に向けてやっていること。

 

 

「場の空気を読む」 というのにも
似ている。

 

自分の主観を入れずに

 

身体全体から
入ってくる情報を

『なんだ?』と
感じ取ろうとする時、

 

目にはいってくるものを
一つ一つ
考えていては
ついていけない、

 

手放し状態。

 

集中
とも違う。

 

心の感覚の網を
パッと広げて
どこかでキャッチ
しようとする
ような
センサー

 

その場を管理する者が
無意識にやっていること。

 

 

それを
外側に向けずに 内側でする。

 

 

ついこの前までは

 

心臓の横に
つめたーい石のかたまり
があるような
感じがしていた。

 

それが、
だんだん小さくなり
あたたかくなり
やわらかくなり

 

かたまりはなくなった。

 

「しなくてはいけない」
を手放し、
「したい」ことを
増やして
きたおかげ。

 

こんなことさえ
わからなくなっていた。

 

義務
責任
負担

 

の中に
埋め込んでいた「自分」を
発掘作業し始めた。

 

化石と化していた
かたく冷たい かたまりを

叩くのではなく、

 

ホコリをはらって
両手で包んで
あたためてきた。

 

こんなところにあったんだ。
私の大切な宝が。

 

気づけてよかった。

 

いまは

やわらかな熱を帯びた
小さな太陽が
あることを
感じ取れる。

 

心臓の鼓動とともに
その太陽の輝きが
全身をめぐっている。

 

でも、そのめぐりは

霞のように繊細だから
強い風に
吹き飛んでしまう。

 

悲しみ
恐怖
不安
緊張

 

ビリビリと稲妻が這う
その嵐の中でも

 

心臓の横にある
小さな太陽は
確かに ある。

 

もう、冷たい石じゃないから、

思い出したら
いつでも
そこに戻ってあたたまれる。

 

 

「ただいま!」の
顔が 晴れ晴れしているように。

 

ドッと笑いが満ちた会場の
濃くなった 空気のように。

 

輝く光の粒子が
いつまでも舞っていて
それを
からだに纏って動き続ける

 

イメージができたら
OKサイン。

 

布団を出てスタート!

 

 

 

 

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人を好きになるということ

人を好きになるということ

 

人を好きになると、

 

「結局は、自分と向き合うことになるんだなー」

 

と、思います。

 

 

好きだと言って欲しいから、

自分の価値を認めて欲しくて、奮闘します。

 

そう、「価値」

 

「見た目」の価値だったら、

 

綺麗だと言って欲しい。

肌がすべすべ。

指の形がいい。

髪型が素敵。

若々しい。

つやつやしている。

ほどほどの体型で、

太りすぎじゃないけど、

柔らかくて、女らしい。

 

ここが好き って言ってもらえるように、どこもかしこも気になります。

 

 

「内面」の価値だったら、

 

優しい。明るい。癒してくれる。

常識がある。話してて楽しい。

しっかりしている。

などなど。。

 

他の女性と比べては、ダメだダメだと思いながらも、なんとか良く見せようとする。

 

そして、その項目はキリがなくなる。

 

どんだけポイント高くしたいの?

 

 

自分で思っているほど、人は気にしていないものです。

 

 

化粧品売り場で、とっても気になっているシミをカバーして欲しいのに、

 

「え?そんなに目立ちませんよー」と言われて、初めて気がつくようなもの。

 

自分だって、その人を好きになった理由は、そんな細かいところじゃなかったりする。

 

見た目、と言っても、目の輝きだったり、身体全体の動きだったり、

 

内面、と言っても、なんでも理解してもらおうとは思っていないから、

意見の違いも気にしない。

 

ただ、一緒にいたいだけ。

理由なんて、探したらあるけど、

 

どうでもいいから、一緒にいたい!

 

 

だから、「条件」をつけているのは、自分だけ。

自分ができないことを罰しているのは自分だけ。

 

 

それより大事なことがある。

 

「自分が自分をどう思っているのか?」

 

「価値」が必要だと思ってしまうのは、

「価値」が足りないと思っているから。

 

その自信の無さが言動に表れる方が、

本来持っているはずの生き生きとした輝きを表現できない。

 

よっぽど強いダメージな気がします。

 

自分で自分が好きになれないと、たとえ、親密になれたとしても、

いつも気にしてしまいます。

 

 

親密になれた大きな喜びと同時に、

 

同じだけ大きな不安を抱え込むことになるのです。

 

「この幸せを失うかも」という不安。

 

「価値」が足りない自分より、

「価値がある」ひとに奪われるかも。

 

そして、どんどん「自分ではない」ものになろうとします

 

良く思われたいから、

 

相手にあわせて、自分の気持ちを押さえてしまう。

 

髪が長い娘が好きなのか~。

細身の女性がタイプなのか~。

お料理上手い人がいいのか~。

おとなしい恥ずかしがり屋さんがいいのか~。

 

ん?

私とぜんぜん違う。

 

でも、彼が好きなら、そうならなきゃ!

 

好きだった髪型を変えて、

なんとか痩せようとダイエット、

包丁を持ってオロオロ、

言いたいことも我慢する。

 

でも、それは不自然だから、どこかに無理が生じてくる。

ほんとうの自分じゃないから、いつも緊張してるみたい。

 

我慢していることが、苦痛になってくる。

 

どうでもいいから好き!なはずが、

 

自分が我慢をしてる分、相手に見返りを期待して当然。

と、思い始めたり、

 

どうしてわかってくれないの?

と、怒ったり、悲しくなったり。。

 

この堂々めぐりの ひとり劇場を

終わらせるには、

 

「価値」という考えの枠を無くすこと。

 

見た目の「価値」、内面の「価値」という

ハードルを作ったのは自分なんだ と思い出す。

 

自分ができないことを許すこと。

無理して できなくてもいいんだ。と。

 

そして、ひとと比べないこと。

 

比べることは意味がない。

 

美人?スマート?賢い?器用?

 

取り繕うことに懸命になると

ほんとうの自分の美しさを見失ってしまいます。

 

わたしはこのままで美しい。

無理してできなくてもいい。

 

自分らしくいられると、心が穏やかになってきます。

 

自分が自分を認めて、素の状態を出せること。

それが ほんとうの自分。

偽りのない自分。

 

自分を犠牲にすることはありません。

 

自分の意見は伝える。

 

でも、

それをどう受け取るのかは

相手の問題。相手の自由

 

好きなひとに「好き」「大切なんです。」

と伝う前に、

 

自分に「好き」「大切なんです。」と

言えたら、

 

飾らない、純粋な気持ちでいられます。

 

 

伝えたことを

相手がどう受け取るかは

様々でしょうが、

 

その前に、

自分に素直に伝えられた。

ということこそが、

大切なのです。

 

 

ひとを好きになるという感情を

自分を好きになることで、

純粋に育てることができます。

 

 

もう一歩、先に進めると、

 

「自分を許す」ことの先に

「相手も許す」ことができるようになります。

 

相手がよそ見していても、

他の人に興味を持っているようでも、

会いたいのに会えない時も、

意見が違っても、

思うように応じてもらえなくても、

 

相手の意思を大切にできる。

 

そうしたいんなら、どうぞ。

 

でも、わたしはあなたが好き。

 

 

相手が喜んで、楽しんでいることを心から自分も喜べる。

 

相手は相手の自然のままで、居心地良くいてくれることを幸せに感じます。

 

 

ちょっと難しいことですが、少しずつでも意識してみてください。

そうなれると、嫉妬したり、疑ったり、心配することが少なくなっていきます。

 

自分が無理をしないでいられて、

相手にも無理を強いることがない、

 

平和な関係。が理想です。

 

どうでもいいから好き!でいられます。

 

 

え?無理?

わかりますよ。

 

好きだから束縛したい。

何を考えているのか知りたい。

好きでいてくれるのか確かめたい。

 

ですよね。

 

 

どんなに親密になれても、そんな思いはキリがありません。

 

束縛したいという思いは、

自分の中にある「安心したい」という気持ちがあるから。

 

「安心したい」は「安心できない」という「恐怖」の気持ちがあるから。

 

 

それなら、あなた自身は、自分の気持ちが絶対揺らがない!

ことが約束できるでしょうか?

 

「気持ち」は、常に動いています。

 

ささいなことで、喜んだり、驚いたり、悲しんだり、怒ったり。

 

なんと動きの激しいこと。

 

感情が動くのは当たり前。

 

動き続けているのに、安定しないのが生きている心なのに、

「安心」なんて、無いのに等しい。

 

だから、それより、もっと先に進みましょう。

 

喜んだり、驚いたり、悲しんだり、怒ったりするのは当然。

 

だけど、大丈夫。

 

感じることはとても大切。

 

そして、

感じたなーと、納得したら、

それで終わり。

 

感じるのは、自分だけ。

 

ひどいわ!と怒ったら、

じーっとその感情を感じる。

寂しいなーと感じたら

じーっとその感情を感じる。

 

で、しばらくしたら、

 

さ!次!

と、切り替える。

 

普段の気持ちにリセットします。

 

どうでもいいから 好き!に。

 

そうすると、

また、同じことが起こっても、

感じ方が変わってきます。

 

そのうち、慣れてきます。

怒る強さ、寂しい感覚が小さくなってきます。

 

諦めるのとは違います。

 

きちんと「感じた」なら

それは、諦めたのではなく、

感じ終わったから。

 

我慢はしてはいません。

 

偽りの笑顔ではないのです。

ほんとうに喜んで見ていられる。

 

そして、堂々めぐりも終わらせられます。

 

次の段階へ進んでいるのです。

ステージが変わるように。

 

「ひどいわ!」と思った自分が変わります。

 

「寂しいな」と感じた自分が変わります。

 

だから、

相手への感情が変わります。

 

こうして

「相手を許す」

 

つまり、

 

強がりでもなんでもなく、

そんなことは、どうでも良くなる。

心に真の余裕ができます。

 

 

感情が大きく動く

 

「ひとを好きになること」は

 

ほんとうに生き生きとした変化が生まれます。

 

 

やっかいな、不安定感も味わいますが、

 

それも、どんどん味わいつくし、

 

ワクワク楽しめることも多いものです。

 

 

そして、

人生で大切なこと。

 

自分が自分自身をどう思っているのかを

見つめ直すチャンスです。

 

たとえ相手が替わろうと

 

自分を見つめていく道は

生きている限り続くもの。

そして、成長していくもの。

 

 

幸せは

自分の中に見つけられる。

 

こだわりのない穏やかな心。

 

 

素のままの自分で、幸せを感じて、

相手も

素のままの相手で、幸せを感じて、

 

それを、お互いが、ともに分かち合えるような

 

関係がいいですよね。

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言いにくいこと

「そろそろ

帰って欲しいんだけどなー」

と思いながら、言い出せない。

 

何が大事か

比べてしまっているようで、

申し訳ない気持ちが強くある。

 

思いきって、

正直に、

「そろそろ時間なの。」と言うと、

「あ!そうなんだ。

じゃ、帰るね。またね~~。」と、

意外と相手は気を悪くしたふうもなく、

あっけない反応をするものです。

 

「あんなに悩んでいたのに、

言ってみるもんだな。」

ということ、ありますよね。

 

すべてに

オープンでいられたら、

どんなに楽でしょう。

 

なんにも気にせずに、

その時、その瞬間に感じたことを

素直に言えたら

 

こんなとき、

相手が、どう感じるか?を

気にしています。

 

「えー! もっとしゃべろうよー!

楽しいのになんでー?」

と聞かれてしまったら、

 

「疲れたから。」

「やりたいことがあるの。」

「ボーイフレンドに電話したいの。」

「これ以上あなたといるより、

もっと大事なことがあるから。」

という理由があることを説明して、

 

それと

相手を比べていることを

知られるのが「怖い」

思っているようです。

 

どうして、

自分の感情を大事にするより、

人の反応を

気にしてしまうのでしょう?

 

それを「怖い」と

思っているのでしょう?

 

私も、

それは強く持っています。

 

なるべく相手に「いい気分」で

いてもらいたいから、

自分の感情を押さえてしまう。

 

相手が不快になってしまうことを

怖れています

 

自分が大事にしたいことや、

自分が「いい気分」で

いることよりも、

 

相手のことを強く気にしている。

 

 

自分のあたまで判断して、

「こんなこと言ったら、

嫌な気分になるだろうな。

だから言いにくいな。」と

勝手に想像しています。

 

でも、

自分に置き換えてみると、

 

相手が正直に言ってくれたら、

「そうなんだ」と

悪い気にもならずに

いられることの方が多いと思います。

 

むしろ、

「え?なんで?」と

怒ってしまいそうになる時、

 

どうして自分はそう思うのだろう?

と自分に問い直します。

 

「私といると疲れるの?」

「お菓子まで持ってきてあげたのに、

私と話すことより

やりたい事があるってどういうこと?」

 

「話したいことがあるって言ったの、

そっちじゃない!

時間をやりくりして、

わざわざここまで来たのに!」

 

自分の中に持っている

「感情」が出てきます。

 

ここに反応するから、

不快な怒りを感じるんだと気づきます。

 

「私といると疲れるの?」は、

自分もそういう経験があるから。

 

疲れていることを正直に

相手に伝えずに我慢していたから、

あとでグッタリ、

とても疲れてしまった。

 

という似たような過去の体験。

 

 

こんなことが原因で、

「え?なんで?」と、

ムッとした怒りの感情が出たことに

気づきます。

 

だから相手も同じで、

怒ってしまうのだと勝手に考えて

それを恐れているのです。

 

それどころか、

「少々疲れていても、我慢しなさいよ。」

とまで思っている

自分に気づいて驚くこともあります。

 

「私も我慢したんだから、

あなたができないことは無いでしょう。」

さすがに、そこまで

口に出しては言いませんが、

心の中で平然と、

当然のように思っている自分に

ビックリします。

 

我慢することを無意識に、

人にも押し付けているのです。

 

 

面白いですよね。

だって、こんな体験がなければ、

「あ!そうなんだ。」と

軽く受けとめて、

不快な感情を感じないで

いられたのです。

 

「疲れてるのね。

ゆっくり休んで

元気になって欲しいな。」

という

優しい気持ちを

相手に伝えられるほど、

 

豊かな感情にもなれます。

 

 

我慢することを

押し付けるなんてこと、

絶対思わないですよね。

 

優しい言葉のやりとりで、

私たちは満たされた幸福感を

感じることができるのに、

 

「言いにくいこと」を

持ち続けているということは、

自分の世界を狭くしている。

 

余裕のない心の、

傲慢な自分に気づいて、

自分が嫌になるほどに。

 

こうして

「自分に向き合う」ということが、

とっても大切なことだとわかります。

 

選択肢が狭い

ということは、

自分が

自分の感情を押さえているのが

原因。

 

考えが浅いわけでも、

神経質なわけでも、

我慢できない未熟者なわけでも

ないのです。

 

だから、

傲慢で嫌な自分ではない。

 

「感情」を「どう感じたか」の違いだけ。

 

押さえてしまった「感情」に気づくだけ。

 

実は、

これがわかってしまえば

簡単なことなのです。

 

過去の経験には、

思わぬ落とし穴があるのです。

 

自分が感じた

不快な感情を押さえてしまうと、

 

それをずーっと持ったまま、

「今」を生きているのです。

 

そして、

「言いにくいこと」を

言えずに繰り返していると、

 

「疲れた~」という不快感は、

さらに強く記憶に残るので、

 

さらに強く

「言いにくい」ことになっていきます。

 

押さえてしまった不快な感情が、

いったい何だったのかに

気付かない限り、

 

日々の生活の中で、

「言いにくいこと」

を増やしていくのです。

 

どんどん自分を不自由にしていく。

 

「なんにも気にせずに、

感じたことを素直に言える。」

ことなんて、

到底できない

「今」の自分のままで、

 

これからも

生きていかなきゃいけないなんて、

チョット悲しくなってしまいませんか。

 

で、

「疲れたのよ!」

大声で言いたくなる

状況にまで追い込まれて、

はじめて正直に言える。

 

そこまで追い込んだのは

自分なのに、

 

その時の相手に、

強い不快感を与えてしまうほどの

感情を、

強くぶつけることしかできなくなる。

 

我慢できない!

 

それだけは、

避けたかったから、

ここまで押さえてきたのにね~~

 

一番怖れていたことを、

やってしまわないと

気が済まないほど

追い込んでしまう。

 

そして、

爆発してしまった自分に

 

自分でビックリして、

 

「あー!悪いことした~~!

ごめんなさい!」と

 

そんな自分が嫌になってしまう。

 

それが一番怖いことだったのに。

 

 

そのままで済ませて、

忘れてしまおうとすると、

 

自分をそこまで追い込んだ、

不自由な状態の原因に

気づかないままになってしいます。

 

爆発したのはどうしてだろう?

という理由を

自分の中に探しに行く

貴重なタイミングです。

 

自分を嫌にならないで。

 

爆発することは、

悪いことではなくて、

むしろ、良いことなんです。

 

爆発するのが

早ければ早いほど、

周囲の人への被害も

軽傷で済みますしね。

 

ホントに、

すべてにオープンでいられたら、

どんなに楽でしょう。

 

生きているのですから、

 

強い感情を持つことも

当然ありますよ。

 

なんにも気にせずに、

感じたことを素直に言えたら、

 

爆発するのも、

とっても

小さな爆発でおさまりそうです。

 

そうできたら、

自分を嫌になったりもしない。

 

 

だから、

「言いにくいこと」は、

 

自分の中に持っている

「押さえてしまった感情」に

早く気づけるサイン。

 

そして、それは、

「言いにくいこと」

だけではなくて、

 

いろいろなことに

当てはまることが

理解できるようになります。

 

怒りっぽくなって、

大声で怒るのも、

 

心配で、

ひとのことまで関わろうとするのも、

 

泣き虫になってしまって、

ささいなことでも泣いてしまうのも、

 

外出するのも億劫で、

人と関わることが苦手なことにも、

 

とても人に会いたくなる時も、

 

嘘をついてしまうことも、

 

実はその心の中に、

強く押さえ続けている

「感情」があるから。

 

「お菓子まで持ってきてあげたのに。」

「わざわざここまで来たのに!」

は、

 

喜ばせたいほど好きな友人なのに、

相手はそこまで思ってくれてないの

かもしれない。と、

 

自分の思いと

相手の思いを比べている状態。

 

「思い」なんて、

いつもコロコロ変化して、

自分でも

大きさや形の定まらない

不安定なもので、

比較なんて

できないものなのは

分かっているつもりでも、

 

「お菓子」や「費やした時間」で

無理やり測ろうとしている状態。

 

そして、

「与えた」のだから

「与えてもらう」ことが当然。

という考えがあるからです。

 

「与えてもらえない」ことに

不快感を感じている。

 

「与えた」は=「与えたかった」。

そうしたかった

自分の本当の気持ちが、

「見返りを求めない純粋なもの」

であったら、

 

「与えられ」なくても、

ぜんぜん構わなかったはず。

 

喜んでくれる相手を

見ているだけで

嬉しいものです。

 

でも、

 

「見返りを求めない純粋なもの」

でないから、

「与えてもらう」が当然。

と思い込んでいます。

 

さて、「見返りを求める」のはなぜ?

 

これも、いろいろあると思います。

 

自分の話を聞いて欲しかったから。

 

自分にも

何か喜びを与えてもらいたかった。

 

自分が友人で

良かったと思ってもらいたいから。

 

などということを求めていたのカモしれませんよね。

 

あ!

「疲れても、我慢してもらいたい。」

もありますね。

 

自分の中だけでも、

これだけいろいろな

感情を抱えていて、

それらが複雑に

絡み合っているのです。

 

だから、

相手がどう感じるか?なんて、

全くわからない。

 

気にすることはない。

と思っても

いいんじゃないか?

 

「言いにくいな」と思っても、

言ってみましょう。

その時、

「言いにくいな」と思った

自分を見つめてみましょう。

 

そうして、

 

大切な自分の「いま」を

自由に使えなくしてしまうのは、

 

自分の感情を押さえてしまう

自分自身なんだ!と

 

ひとつひとつ、気づくことで、

 

隠しごとのない、

素直なままの、

オープンな自分を

堂々と表現できるようになれるのです。

 

ほんとうに、ひとつひとつ。

これまで、いろんなことがあったから、

たくさんたくさんあるでしょう。

 

でも、一つでも気づけたら、

それだけ自由になれるのです。

 

「疲れた~!」

「嬉しい!」

「それは残念です~!ガッカリ。」

「ムカムカしたのよ~!」

「呆れたわ!」

「悲しかったの~」

 

これまで

言いにくいと思っていた、

表現できないと思っていた、

たくさんたくさんの感情を

言葉に出していくことで、

生き生きとした自分になっていきます。

 

私も、

事あるごとに、

うまくいったり、いかなかったりを

繰り返していますが、

 

自由は、

こうやって

自分で得られるものなのだと、

驚きながら楽しんでいます。

 

とても狭かった世界が、

少しずつ広くなって、

とても

居心地が良くなってきています。

 

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兄弟姉妹という環境

兄弟姉妹という環境

 

弟と手をつないで歩いた小さかった頃。

 

迎えを待ちわびて、保育園の

玄関のガラスに張り付いて

私を見つけた笑顔を

忘れることはありません。

 

どんどん変化する環境の中で、

一緒に驚き、楽しみながら、

ともに成長してきた同士。

 

兄弟姉妹は、

おなじ「家族」という環境設定のなかで

育てられながら

「ものの考え方」を学んでいきます。

 

だから、

性格や能力は違っても、

ものごとに対する「考え方」は

とても似ています。

 

 

私たち姉弟は、

とても厳しく躾けられたので、

 

「我慢しなくてはいけない」

 

という考えを、

とても強く握っていたようです。

 

ものごとがスムーズに進むのならば、

自分が本当にしたいことを

我慢するのが当たり前。

と、いつも思っていたのです。

 

結婚して、子供ができると、

「家族のために」

自分を犠牲にすることが、

良いことだとさえ思いはじめます。

 

仕事で疲れていても、

体調が悪くても、

 

「理想の家族」という形を崩さない

ことを最優先とすることで、

 

自分に課せられた責任を

果たしていることが

「良いこと」と信じて

満足してしまうのです。

 

順調に行っている間は良いのですが、

体調が悪くなったり、

経済的な支障が出てきた時に

問題が表面化します。

 

本来ならば、

それ以上の我慢を重ねることよりも、

 

家族に協力してもらって、

治療に専念したり、

 

出費を抑えるために

生活の内容を変えていけば

良いのですが。。

 

我慢を重ねているひとは

 

ひとに頼ることさえも、

我慢してしまいます。

 

家族に我慢をさせることは、

自分がワガママなのだ

とさえ思ってしまい、

 

その不快感よりは、

 

やっぱり自分が我慢をする方を

選んでしまうのです。

 

「我慢しなくてはいけない」という考えは、

「我慢できない」という感情を、

押さえて、

蓋をして、

なかったことにしようとします。

 

自分が「我慢」しさえすれば、

ひとに我慢させることはない。

 

それが「良いこと」。と、

それまで生きてきた中で、

自分で作り上げた考えに縛られ続けていると、

 

それを知らせるために、

出来事が起こり始めます。

 

それは、

 

「このままいったら、

 身体を悪くして、

 動けなくなってしまいますよ!」

 

という、身体からのサインであったり、

 

 

「それで、あなたは、

 本当に幸せなんですか?」

 

と、

考え直さなくてはいけない出来事。

 

たとえば、

さらに我慢しなくてはいけないような

状況にさらされることが起こって、

 

「え!これ以上は、さすがに我慢できないわ!」

となります。

 

そんなことが始まっているのに、

まだ

なかなか気づくことができないと、

 

さらに深刻なことが起こり始めます。

 

動けなくなって、

どうにもならなくなって、

はじめて、

「すみません!よろしくお願いします!」

 

と観念させられるのです。

 

 

我慢が「良いこと」なのか?

 

「感情」を押さえていることが

「良いこと」なのか?

 

学校の成績が良い人ほど、

この傾向は強いのでは?と、

弟を見ていて感じました。

 

結果に対する

執着が強いのでしょうか?

 

挫折を感じる経験が少ないと、

挫折する自分を

許せなくなるのでしょうか?

 

 

自分はどうしたいのか?

 

子どものように笑顔を見せてくれたり、

 

鼻を押さえながらガラスにへばりついて

迎えを待っていたり、

 

大声を出して怒ってくれたら

 

とても分かりやすいですよね。

 

 

弟は「病気」

私は「出来事」

で、観念させられて、

 

ようやく

「我慢できないです!すみません!

よろしくお願いします!」

 

と、なりました。

 

大変な出来事でしたが、

もし、それが無かったら、

 

さらに我慢を続けるという、

自分を自分の考えの奴隷

してしまっていたでしょう。

 

「考える」ことは、大切ですが、

「感じる」ことの

大切さを教えてもらうことは、

とても少ないように思います。

 

「感じる」ことこそ

「生きている」こと。

 

幸せな人生は「感じる」もの。

 

小さい頃から、社会に出るまでを

一緒に過ごしていた私たちが、

ここにきて、

 

一緒に大切なものを

見直すことになったのは、

 

「家族」という環境設定の中に、

 

実は、

大きな課題を持っていて、

 

それに気づくタイミングだったのでした。

 

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